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私はリア充である




実家に帰って、地元に残った友人に会う。
中にはおじいちゃん?という変化をしている奴もいて過ぎた年月の長さを思う。

 

大学時代の自分がもし未来の自分、つまり現在の中年の私を見たなら・・・

 

恐らく飛びついて「ありがとう!」というはずだ。
ウエストサイズと体脂肪量はそのままで、筋量は10キロ増えている。
まぁ容姿はおまえの理想型のポールウェラーにはなれなかったが、だって日本人だもの。
そこは大目にみてくれ。
仕事もプライベートもそれなりに順調だ。

 

「すごいじゃん、よくやった俺!」とさえない大学生だった自分は絶対言うと思う。
そんな私を見て、今の中年になった私はにっこりとほほえむはずだ。

 

でも本当のことはきっと教えないだろう。
人生がうまくいけばいくほど、
その姿を一番見てほしい両親の不在をますます感じるようになることを。

そして母が亡くなった日のように妻にもそんな日がいつかくるんじゃないだろうかと、
毎日怯えなくてはならなくなることを。

やっぱりそう簡単には幸せにはなれない。
口惜しいが世の中そんなふうにできている。

老人3

(追記)
今回の記事を読んで
「自分のことをいわゆるリア充と思ってんじゃないの?」
と感じた読者もいるだろう。

その通り。
私は自分のことをリア充と認識している。

しかしそれにもかかわらず過去3回ほど部下に

「赤城さんは何が楽しみで生きているんですか?」
と尋ねられたことがある。

 

そう思われているという問題と、思われたからといって直接尋ねられてしまう私の扱いってどうよ、という問題があるのだが、とりあえず前者について。

 

こんなふうに思われるのは、比較的禁欲的な生活パターンが一般的な幸福の規範から逸脱している、と受け取られているからだろうか。

と言っても自分が幸福かどうか決めるのはあくまで自分だからな、
そんなこと言われたって全然気にしてねぇよ。
と言いつつずっと尋ねられたことを覚えているということは・・・











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