以前
最高の弔辞はこれ
という記事の中で
最高の弔辞はこれ
という記事の中で
「最高の弔辞は石原裕次郎の葬儀における勝新太郎の弔辞である」説を
となえました。
役者バカ勝新太郎は事前に完璧に計算されつくした弔辞を読んだと推測したのですが
最近この本を読んだことで考えが少し変わりました。
天才 勝新太郎
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天才 勝新太郎 (文春新書)
春日 太一 文藝春秋 2010-01
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この本は天才勝新太郎の生涯を追いながら
いかに彼が狂気と言っていいほどの情熱を芝居や映画に注いでいたかを語っています。
前述の記事の中で良い弔辞であるためには
脚本
演出
演者
の三つ全てが優れている必要があると言いましたが
勝新太郎は生涯ずっとその3つを極めようとしていたわけです。
彼の弔辞が最高でないはずが無い。

しかし私が推測した
実は完璧に完成された演技でこの弔辞を100回読んだとしても、ビデオを再生するように全く同じようにやれたのだとしたら・・・
という部分は誤りだったようです。
何度やっても同じことができる、というある意味計算され尽くした予定調和に
勝新太郎は価値を見いだしていなかったようなのです。
「偶然生まれるものが完全なものだ」
という思想を勝が持っていたことがこの本で述べられています。
「偶然生まれるものが完全なものだ」
という思想を勝が持っていたことがこの本で述べられています。
そうだとするとこの弔辞は言うべきことが完成されていた訳でなく
かといって思いつきで喋っていたわけでもなく
弔辞を読む直前まで
誰よりも石原裕次郎のことと彼を送る言葉を考え続けた結果
あの場所あの瞬間で勝新太郎にしかなし得なかった最高の弔辞を彼は読んだ
といえるのではないでしょうか。
この独特の分析・・・(笑