葬儀屋さんが「外部」であるがゆえの役割




脚本家平田オリザ氏の演劇論から、葬儀屋さんの役割を考えます。

先日こんな記事を書きましたが
平田オリザ作・演出「日本文学盛衰史」を観てきました | 考える葬儀屋さんのブログ
今回紹介するのはこの本。

平田オリザ演劇入門

この本の中で平田氏は

現代演劇の役割は、自分に見えている世界を、ありのままに記述すること

と述べています。

演劇の世界はリアリティを持っていなければなりません。
しかしダメな演劇というのは出演者自身が自分を取り巻く状況や気持ちを語ってしまいます。
いわゆる「説明セリフ」というやつですね。

これでは演劇世界にリアリティを持たすことはできません。
なぜなら我々は日常でそんな会話はしないからです。
優れた演劇は、早い段階で観客に対し、その演劇空間がどんな世界かを、出演者の対話で伝えます。

しかし演劇の舞台が完全にプライベートな空間であるとそれは難しいことになります。
例えばリアリティのある家族同士の会話を10分聞いたとしても、お父さんの職業すら分からないでしょう。
それを無理に説明しようとするとリアリティのない会話になってしまいます。

そこでたとえプライベートな空間であっても、人の出入りが自由な状況を設定するというテクニックが使われます。
配役として外部の人を登場させることによって、対話しなければいけない状況を作り出し、その演劇世界を観客に伝えようとするのです。


平田氏の戯曲「月がとっても蒼いから」の舞台は通夜で、そうなると外部の人間が出入りする状況が作れます。
そして遺族以外の配役は下記の通りです。
葬儀屋・通夜を手伝いにきた二人・遅れてきた弔問客

この演劇では葬儀屋さんが外部になっています。
故人の事を全く知らない外部として機能させることで、遺族は故人について自然に語ることができます。

この状況は演劇空間だけではなく実際のお葬式の現場でも発生しているということに気づきました。

遺族のプライベートな空間に、葬儀屋さんという外部が入り込むことによって、故人の人生を語るという構造が生まれます 。
故人の生涯や人となりが、葬儀の打合せや遺族との対話の中で出てくるわけですね。
そして家族が三世代にもなってくると、故人に対して同じ情報を共有していると思い込んでいたのに実はそうではないということがよく起きます。
亡くなったおじいちゃんの話をおばあちゃんが語ってる最中に、お孫さんが「え、そうだったの?」と言うことは珍しくありません。

故人が忘れ去られてしまう前に、故人の人生の物語を対話として表出させる機能を、葬儀屋さんは担っているのではないでしょうか。

お葬式が慌ただしくて時間に制限があるという言い訳をすることで、葬儀屋さんは故人の話を聞かなくても型にはめたお葬式を行うことは可能です。
しかし我々葬儀屋さんはせっかく特別な役割を持っているわけですから、故人の人生に耳を傾ける時間を持つべきです。
それはお葬式の最中だけではなくお葬式が終わってからでも可能です。

我々葬儀屋さんはせっかく外部という役割を手に入れたのですから。











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