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母の葬儀の思い出とその周辺の記憶




私が母の葬儀を経験したときの話です。
ちょっといまだに自分の中ではうまく消化されていない部分があり、
客観性を保てていないところもあるのですが
私のスタンスを理解してもらうために書き記すことにしました。

母が亡くなったのは私が中学生のときでした。

検査のため病院を訪れた日に意識不明になり、その2週間後に亡くなりました。
結局亡くなる当日まで、
「ただ入院しているだけだから」
と父に言われていました。
一度だけ病院に会いに行ったのですが、
そのときは人工呼吸器を付けた状態での面会で、周囲からは
「今、眠っているだけだから」
と言われていました。
「いや、でもこの状態はおかしい」
と思いましたが、結局逡巡したあげく
「本当に大丈夫なの?」
とは、父に聞けずじまいでした。
今にしてみると父を苦しめずに済んで良かったと思っています。

母が亡くなる数時間前に、父から
「お母さん、あかんかもしれん」
と言われても、まだ母が死ぬはずがないと思っていました。
なぜなら死ぬはずがない存在だったから、
としか言いようがありません。

母の遺体が自宅に帰ってきてから、火葬されるまで
結局一度も母の遺体には触れていません。
夜、トイレに行った時、遺体が安 置してある明かりのついた部屋を
ボーッと見てたことは覚えてます。
固く冷たくなった体に触れることが、ひらすら怖かったのです。
その当時の自分 を思い出すとしょうがないっていう気持ちと悔恨の気持ちが、
同時にわき上がってきて、結局今になっても全てを自分の中で消化できていないってこと に気付かされます。

母はとてもきれいな人でしたが、納棺後、
左目の下が茶色に変色してしまいました。
葬儀屋がその変色を隠すように顔の角度を変えていて、
ああ、死んだから腐り始めたのだと、思いました。
子供の私には衝撃的でした。

でも今なら分かります。
葬儀屋のドライアイスの当て方が雑で、顔に直接当てていたせいです。
もしその葬儀屋が今、目の前に現れたら、そいつの顔に直接ドライアイスを当てて、そいつが人の声とは思えない声でわめこうが泡を吹いて気絶しようが、
皮膚が完全に壊死するまで当て続けることができるってことに
私の全財産を賭けてもいいです。

お葬式の記憶は断片的にしかありません。
両親が仲人をした醤油屋のお兄さんが号泣していたこと、
仲の良い従兄弟(いとこ)がそばにいてくれたこと、
人が集まっている状態がうれしいらしく、7才の弟がはしゃいでいたこと、
読経したお坊さんの1人が小学校のときの校長先生で
退席の時私の手を握ったこと、
それくらいです。

葬儀が終わってから、父が葬儀の請求書を見ながら
「(葬儀屋に)やられたな」と力なくつぶやいている光景で、
私の母の葬儀の記憶は終わります。

その数日後夕飯の支度をしていて、
無意識のうちに母がいつも座っていた席にお皿を置いてしまったとき、
激しいショックと喪失感に襲われました。

それから幸福の上限が決まってしまった
という想いが長い間自分の中に居座ることになりました。

こんな風に書いてみるとなんで自分が葬儀屋になったんだろ、
って不思議な感じですね。
本当なら
「葬儀屋は人間のクズ」
と言う立場の人間にならなければおかしいんですが。

自分のときにうまくいかなかった葬儀をやり直そうとしている、
きれいにまとめるとそんなところなんでしょうか。
正直自分にもわかりません。