この本を読んでつらつらと思ったことを書いてみます。
特にオチは無しで。
わかりあえないことから 平田オリザ
(P161から引用)
同じ日本語を話していても、私たちは一人ひとり、違う言葉を話している。こういった話し言葉の個性の総称を、「コンテクスト」と呼ぶ。
コンテクストは、本来は文脈という意味だが、ここではもう少し広い意味で、
「その人がどんなつもりでその言葉を使っているか」
の全体像だと思ってもらうといい。
ちなみに斎藤孝は
空気を読むというのはコンテクストを読むことだと言っています。
限られた時間の中で、限られた情報の中で、
精神的に不安定になっている遺族を相手に行動しなければいけない我々葬儀屋にとって
精神的に不安定になっている遺族を相手に行動しなければいけない我々葬儀屋にとって
コンテクストを読む能力は必須でしょう。
にもかかわらずコンテクストを読めない葬儀屋さんもたまにいます。
自分の演出にありがとうと言ってくれたから、
遺族は喜んでくれたと、ニコニコ話している人とか。
コンテクストを読むことの必要性を知っているなら
言外に込められた何かに対して
言外に込められた何かに対して
感づかなければいけないとおもうのです。
私は最愛の人の喪失体験があり、
その点では遺族と共有できるバックグラウンドがあるはずですが
死に対して感じることは必ずしも同一ではないはず。
そこで平田オリザが定義づけるコミュニケーション、つまり
「お互いの差異を認識し、すりあわせる行為」
が大切なのだと思うのです。
こんにちは(^^)
またまたお邪魔致します。
「お互いの差異を認識し、すり合わせる行為」
ですか。
これは必要不可欠ですね(*^_^*)
友人でも会話の中でずれが生じる事もあるのだから、より耳を傾け、相手の立場にならなければ伝わってこないでしょうし。
ただ、私が知る限りでもそれが出来ていない葬儀社さんは沢山いらっしゃいますね(^_^.)
メディアの情報や過去の葬儀社に対する不満。
そこへまだ現代でも変わっていない葬儀社。
こういった事態を解消するのはかなりの時間が必要かもしれないですが
相手の想いに気持ちを寄せて考えてみる。という事をしている、今がんばっている葬儀社さんには今後もどんどん活躍していってほしいです(>_<)
たかだかおり 様
コメントありがとうございます。
>それが出来ていない葬儀社さんは沢山いらっしゃいますね
いますねぇー、自分の論理だけを振りかざす人、
って私もその一人かもしれないですね(^^;)
>今がんばっている葬儀社さんには今後もどんどん活躍していってほしいです
同感です!