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いずれ訪れる地獄に備えよ




今回はあまり愉快ではない話です。

徘徊するおばあさん

先日の暑い夏の日の夜、会社から帰る途中で、道路にうずくまっているおばあさんを見つけた。

駆け寄って大丈夫ですかと話しかけると、
ささやくような声で「大丈夫。大丈夫。」と答えるのだが一向に動き出す気配がない。

そのうちスーツ姿の青年が、一人駆け寄ってきた。

二人して「救急車呼びましょうか?」と尋ねるが、やはり「大丈夫」と繰り返すばかり。

やっと立ち上がって歩き出すが、足を交差させてサイドステップでノロノロと横方向にしか進まない。どうも足が不自由でまっすぐ歩けないらしい。
そのうち道の真ん中で立ち止まってしまう。

「家、どこですか?送りますよ」と尋ねても
「すぐそこ」と言うばかりで要領を得ない。

そこに軽自動車が通りかかった。おばあさんが道をふさいでいるので、それ以上進めない。運転していた若い女性が一人降りてきた。

「大丈夫ですか?病院まで運びましょうか?」

おばあさんはあいかわらず「大丈夫。大丈夫。」と言うが、その声はもう息も絶え絶えだ。

「我々で何とかしますよ」と女性に伝えると、「はい」と言って心配そうに車に乗りこむと、バックで引き返していった

ふらふらして今にも転びそうになっていたので、仕方なく私と青年で両脇を抱える形でノロノロと進む。
体重が70キロぐらいはありそうで結構重い。腰は曲がっている。白髪は長く、表情を読み取ることはできない。

結局自宅は遭遇した場所から50メートルほど離れたマンションの1階の一室だった。
移動にかかった時間は約20分。

最短距離を進んだわけではなく、要領をえない発言内容から判断して、もしかしたら認知症を発症していたのかもしれない。

なんとか玄関の上がり框(あがりかまち)に、座らせた。
ぐたーっと横になっているが、意識ははっきりしている。
近くの自動販売機まで走ってミネラルウォーターを買い、キャップを開けてそばに置いた。

こっちも全身汗だくである。

家に上がり込むのは、はばかられたので、警察に電話を入れる。

10分後に到着した婦警さんに事情を話し、名刺を渡す。
その直後に、御主人らしき人が帰ってきた。

青年と別れ際に「お疲れ様でした」と苦笑いしながら言うと、向こうも苦笑いで返した。

その帰り道、
若者達のやさしさと
あと10年で、こんな老人が路上にあふれだすであろう世界について考えた。

破綻する社会保障制度

恐ろしい…7人に1人が認知症「もう、いやだ」負担増す現役世代の悲痛

この記事によると
2060年に日本の人口は1億2560万人から8,674万人まで減ってしまい、認知症の発症者は1,154万人に達する。つまりその頃、日本人の8人に1人が認知症ということだ。

今年、日本人の平均寿命の伸びが止まったが、今後も平均寿命は下がる可能性がある。

人生100年時代などと言っているが、寿命と国民1人当たりのGDPに相関関係があるため、このまま国力が低下すれば、今の20代の若者が老いる頃には、平均寿命は70才くらいになっていても不思議ではない。

現在50才の男性の約25%は未婚で、そして未婚男性の平均寿命はなんと67才でしかない。
未婚男性の寿命が短いのは、貧しいからだ。貧しいから結婚できず、生活レベルも低くなるという、因果関係と相関関係が現れる。
67才で死ぬということは、現在65才から受給が開始される年金をほとんどもらえない。年金は賦課方式なので、老人のために払うだけ払わされて、もらうことはできない。

仮に、現在50才前後の人が、平均寿命まで生きることができたとしても、社会保障費を払った分を取り戻すことはできない。

それでも長生きしたい団塊世代

老人の「長生き」を支えるために、多くの若者が犠牲になっている。

ちなみに現在の年金制度ができた1970年頃の日本人の平均寿命は70才くらいだった。
それ以降、年金と老人医療にジャブジャブ税金を投入して、84才まで平均寿命を延ばしてきた。

今なおそれでも団塊世代は、長生きしたいと言う。

まったく病気にならない薬が安く入手できて、ロボットが介護してくれるんなら、どうぞいつまでも長生きで、と思う。
または老後の生活費も医療費も全部自費負担で生きていくのなら、何の問題もない。

戦中派は、戦争で若くして亡くなった人が周りにいたせいか、「このあたりで死んでもいい」という確立した死生観や覚悟があったように思う。
団塊世代は、若い世代に迷惑がかかるのにはおかまいなく、「ただ死ぬのが怖い」という死生観しか持たず、テレビを見ながらダラダラ生きている人が多い。
10~60代のネット利用時間、初のテレビ超え 総務省調査
長生きに関する意識調査 日本生命

今の老人に対してほどほどの老後を送らせてしまうと、今の20代の老後には、地獄しか待っていない。

現在国家予算は107兆円で、そのうち社会保障費用は36兆円、37兆円が足りなくて国債(国の借金)でまかなっている。
それでもいつか借金が返せるとみんなが思っているうちはいいが、ムリだと思われたとたんに国債は暴落し、インフレが起こる。
インフレが起こると、もらえる年金の貨幣価値は相対的に低くなるので、年金では食べていけなくなる。

認知症患者が徘徊し、介護殺人と無理心中と餓死者が増え続ける世界が待っている。
なんとかしたくても必要な、財政と労働力は失われている。

でも団塊世代は、それでいいと思っている。

だって自分が死んだ後の世界がどうなるかなど知ったことではない。

昔は、「子供達の世代のために」という言説を聞くと胡散臭さを感じるとともに、そう感じる自分はダメなやつなのか?と思っていた。
今や誰もそんなことを言わなくなった。

認知症で手が付けられなくなる前に日本にも安楽死を、という意見がある。

しかし最大票田である老人は政治に対し、安楽死法案を通すような変化は1㎜だって望んではいない。
百歩譲って安楽死が可能になっても今の老人は生にしがみつくだろう。

日本で安楽死なんて核武装よりも遠い話だ。

コロナ禍を経て

コロナ禍で分かったのは、
全体の最適化を度外視して、それがたとえ平均寿命を超えた老人であろうと延命しようと努力する医師の倫理観と、
老人側の事情で一方的に日常生活を抑制されても、それを支え続け、自分たちには戻ってこない社会保障費用を払い続ける若者の徳の高さである。

儒教精神、バンザイ!である。

どちらもその志には頭が下がるが、それでいいのかとも思う。

もし今の老人達(全共闘世代:安全保障条約を結んだら、なんだかよく分からないまま暴れ出した人達)が、現在の若者の立場だったら、老人に「死んでくれ」と言っていたはずだ。

でも先日私が体験したように、今の若者たちはやさしいから、この状況を受け入れるのだろう。
コロナ危機による追加的自殺によって失われた余命年数は、コロナ感染によって失われた余命年数と同じ

なんとなく老人は弱者という刷り込みが、私自身をふくめて日本人にはあるが、人生を長期間トータルで見れば、今の若者の方がずっと弱者である。
今の若者が老人になることには、後期高齢者だろうが健康保険負担率は5割くらいになっているはず。
今はそれが見えていないだけ。

現在やるべきことは、84才まで伸びた平均寿命を下げる政策だ。
高齢者の健康保険負担率を最低でも3割にする必要がある。
これで多少は、もう助からない人に医療リソースを注ぎ込むことを避けられる。

「健康寿命を終えたら、死ねというのか?」と言い出す老人がいるが、その通りである。
安楽死の本を何冊か読めばわかるが、欧米ではだいたいこの価値観である。自力で食事ができなくなったら、延命処置はしない。

「84歳が平均寿命だからその年齢まで生きて当然」というアンカリング(数値のすりこみ)を行うから、おかしな話になる。
1970年の日本人は70歳で死んでも、文句は言わなかったのに。

かつて私には、老人優遇のこの国の行く末を心配していた頃があった。今となっては
もうこんな国は滅びた方がいいのではないか、というかほっといても滅びるしかないと思っている。

こんなことを言いながら、老人にやさしくしてしまうという葬儀屋の習性がしみついてしまっている。
このジレンマに苦しむ日々だ。

日本全体のことはあきらめて、自分の大切な人の将来だけを守ることを考えだして、
我に返ってニヒリズムが過ぎるなと自省する日々だ。

もうどうしようもないのだろうか。

 

(出典:財務省ホームページ

 

 











2 件のコメント

  • まったく同感です。
    よく介護、医療関係の勉強会で何のポジショントークでもなく、あくまで「現実的な話」としてこういった現状をとりあげますが、皆さん分かっていても口に出せないというのが現実のようです。
    なぜなら、医療は[どんな形であれ]命を繋ぐことを使命としており、介護は[どんな人であれ]日常生活の支援が目的だからです。
    死生感に関しては日本は後進国ですね。

    • 前のめり 様
      コメントありがとうございます。
      >、医療は[どんな形であれ]命を繋ぐことを使命としており、介護は[どんな人であれ]日常生活の支援が目的だから
      なるほど、確かにそうですね。

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