渋谷陽一氏にもの申す




私が渋谷陽一氏の名前を初めて知ったのは
中学の時ピンクフロイドのLPレコードのライナーローツを読んだときだと思う。

その時は、かなりのベテランなのか、と思ったんだけど
彼は学生時代から音楽評論家として第一線でやってきていたので
実年齢を知った時は意外と若くてびっくりした記憶がある。

だから今彼が61才だと知って、もうそんな歳なんだなぁ、と逆にしみじみ思う。

 

で、先日ツィッターでも取り上げたこの記事。

http://ro69.jp/blog/shibuya/76394

相続や葬儀の希望などを書き残すエンディングノートが30代、40代の関心を集め、遺影の撮り方を指南する本が売れたりしているらしい。
馬鹿馬鹿しい事は止めた方がいいと思う。
3・11以降、死を身近に感じる人が増え、こうした動きが広がったらしい。
死を意識し、常に限りある人生を考える事は大切だ。それはいい事である。しかし、それは葬式の費用を考えたり、遺影にどう良く写るかを考える事ではない。むしろそれは死のリアルから遠い葬式ごっこだ。
当たり前の事で言うのもためらうが、死を考えるというのは、どう生きるかを考える事だ。まして30代、40代の人間なら遺影や葬式の心配なんかより、今日と明日をどう生きるか考えるべきだろう。
死を考えると言いながら、死を限りなくバーチャルなものとして捉えているようで凄く違和感を感じる。

残念だ。

彼に私の言葉は届かないだろうが、書いてみる。

「今日と明日をどう生きるか考える」ためには、ゴールがどこにあるのか
見えていないと到底前には進めない。
あなたは雑誌の発売日という締め切りが見えているから、
今日明日の編集作業ができているんじゃないのか?

それから彼はエンディングノートを書くことを「葬式ごっこ」と批判する。

誰もが死を経験するのは一度きり、それも人生の最後においてだから、
そもそもごっこでしか、生きている間は死に近づけない。

だから「葬式ごっこ」でいいのだ。

残される大切な人のために「ごっこ」だけでもしておこう、
と思うのは素晴らしいことだ。
ごっこだとあざける者が実は最も死を恐れている。

恐れるのは構わない。

ただその恐れを認めようとしないのはみっともない。

渋谷氏は
年老いた男性知識人に多い、死について強がったことを言っていい気分、
な人なのだと思う。
(参考記事:お葬式がいやだから直葬、のときほどよく考えよう

近づきつつある死という現実を直視できないチキンハート(臆病者)が
虚勢を張っているに過ぎない。

このブログを読んでほしい。
http://blogs.yahoo.co.jp/k_hayashi0214/10198609.html

彼の葛藤を「ごっこ」だと笑えるのだろうか?
ごっこでなきゃ、とても耐えられるもんじゃない。

「葬式ごっこ」のど真ん中に死のリアルがあるのだ。











7 件のコメント

  • いつも拝見しております。初めて投稿いたします。
    私自身、葬儀業界にて仕事をしておりますが現場を知っている訳ではないことをお断りしておきます。葬儀の現実を知らない者が中途半端に意見を言うべきではない、という躊躇もありますが、今回の渋谷氏のブログは最近よく聞く終活という言葉に対して感じている違和感の原因を認識させてくれものでした。
    まず、この新聞記事と渋谷氏のブログで書かれている対象が30から40台の健康な人(私も含まれています)という印象です。
    この場合、死をゴールとしてみると仕事の締切等とは違い、対象となる多くの人にとって死は期日を特定出来るものではないので、見えないゴールとなるのではないでしょうか?
    私に近い世代の健康な人間が死の準備をする、何か死を達観しているかのような違和感を感じます。それよりも見えないゴールに向って、今を必死で生き、のたうちまわる事で本当に自分の人生を生き、初めて死ぬ事が出来る、と言いたいのではないのでしょうか?
    勿論、物理教師様の言われるように葬式ごっこのど真ん中に死のリアルがあるというのは、私にもリアルに響きますが、やはりその葬式ごっこも本当に自分の人生を生きた人間の葬式ごっこと本当の自分の人生を生きていない人間の葬式ごっこは違うように思いますが、如何でしょうか?
    PS
    渋谷氏のブログが年齢や不幸にも病等で死を意識せざるを得ない人も含んだ人々を対象に書かれたものであれば、物理教師様の意見に同意ですが、そうは感じなかったので投稿してみました。

  • 小泉様、
    丁重なコメントありがとうございます。
    私の本文と小泉様の整然としたコメントを続けて読むと
    私が駄々をこねているみたいですね(^^;)

    最近エンディングノートに関するセミナーにも比較的若い方をちらほら見かけるようになりました。
    彼ら彼女らと話をすると、本当に真摯に生きている、という印象です。

    死を真剣に考えなければいけない状況では
    とてもじゃないがエンディングノートが書ける心理状態では無い
    というパラドックスが存在する以上
    やっぱりごっこであってもそれを認めることが必要ではないかと。

    渋谷氏の価値観として、
    傑作アルバムを数枚の残してオーバードウズで夭逝という破滅型の人生の方が
    コツコツ老後の貯金をしている市井の人々の人生より
    上位にあると思っているんではないでしょうか。
    私は後者の方が素晴らしい、という価値観です。

  • 物理教師様
    終活とは少しずれますが、せっかく初投稿したので、時間のある時で結構ですから少し物理教師様の意見をお聞かせ下さい。
    私自身、両親共に健在ですが、そろそろ親の葬儀を考えるようになってきました。おそらく立松和平氏だった思うのですが、自分の葬儀は息子の好きな様な形で執り行って欲しい、仕事や人間関係の中で派手に行う必要があればやればいい、簡単に済ませたければ済ませればよい、との文を読み、葬儀というのは何十年と生きてきた人生の結果であり、その人生には最後の儀式を託す事が出来る人間を育たという自負も含め、次世代への愛情と信頼を表した言葉だと(勝手に思い)感銘を受けた覚えがあります。
    私自身はやはり、葬儀とは両親に関わった方々に感謝申し上げる場 であり、そこに両親の思いをくみ取りつつ、しかし私自身が主体性を持って行いたい、そしてその私自身の姿を見ていただき、またその姿を私の子供達にも見せたいという、虚栄心も含んでいる事も認めますが、それ以上に私自身が親から託され、私自身はまた子供達に託したいたいとの願望からです。
    同時に、おそらくどのように執り行っても、葬儀というのは程度の差こそあれ、後悔の念が残る様な気もいたします。(また私自身の仕事も絡んでくるので親の意思というものをどこまで尊重できるかわかりません)
    そこで物理教師様が喪主の立場になった場合、ご自身の意思と故人の意思、どちらに主体性をおきますか?また、このような考えの人間に対してアドバイス頂ければ幸いです。

    何か絡んでいるように思われるかもしれませんが、ブログを読む限り信頼できる方なので失礼を承知で質問致しました。

  • 小泉様
    > 何か絡んでいるように思われるかもしれませんが
    いえいえご質問ありがとうございます。
    また返事が遅くなりまして申し訳ありません<(_ _)>

    > そこで物理教師様が喪主の立場になった場合、ご自身の意思と故人の意思、どちらに主体性をおきますか

    私の喪主体験は↓こんな感じでしたので、正直不本意なものでした。
    http://kangaerusougiyasan.com/archives/412085.html

    私の中では
    「ご自身の意思と故人の意思」は相反するものではありません。
    完全一致とはいかないまでも、親の信じたものを、自分は信じる
    というスタンスです。

    http://kangaerusougiyasan.com/archives/1447467.html
    ↑ここに書いたのは墓に関することですが
    もし自分が今喪主になるとしたら、葬式に関しても
    「あちら側に行ってしまった人が生前信じていたことに対するコンセンサスをこちら側にいる人が共有することが重要」だと考えるとおもいますので
    やはり
    「自身の意思=故人の意思」
    が違和感なく自分の中で成立すると思います。
    逆に成立するなら、原理主義的なトラッドな葬儀のスタイルでなくても良い
    とも考えています。

    そのためには生前親の価値観というか葬儀観みたいなものを
    理解しておく必要があるのかなと。

    拙い説明で恐縮ですが、私は以上のように考えています。

  • 物理教師様

    早速のご返事ありがとうございます。
    また物理教師様がすでにご両親を亡くされていた事、既にブログを読んでいたのに気づきませんでした。失礼しました。
    ただ故人の意思と自分の意思がイコールとならない場合や細部で違いが出た場合、物理教師様なら故人と自分の意思のどちらに主体性を置きますか。
    上手い例えが出来ませんが、故人が誰にも葬儀の事を伝えて欲しくないと望んだ場合、それでも自分としては伝えたい方が数人でも居ると思うのです。その場合、どうされますか?
    私はやはり自分が主体性を持って送りだしたいし、逆に送られる立場になった場合は送る人間の意思で決めて欲しい、と思っています。
    言い換えると葬儀というのは喪主が故人の意思を尊重しながらも喪主自身が主体性を持って行うものではないか、と考えています。
    渋谷氏のブログ記事にも繋がる部分が出てきますが、巷間言われる終活やエンディングノートに葬儀の事を事細かに記述する、というのは本質的に送りだす側に対して託す気持ちがないという事に繋がって行きそうな気がするのです。(実際、楽かもしれませんが)さらに言えば本来、意思というのはエンディングノートに記述するよりも、長い人生の生き様で次世代の人間に伝えていく事の方が大切ではないだろうか、また送り出す側にとっては葬儀の段取り等をすすめる中で故人の意思や考えを想像したりする作業が必要な気がしていますが、その機会を奪ってしまう様にも思えるのです。そういった意味からも渋谷氏の意見は否定されるものではないと思えます。(無論、程度問題というのは理解しております。あくまで本質論としてです。)
    何か書いているうちに、原理主義者の様な文章になってしまいました。長文、乱文お許し下さい。

  • 小泉様、コメントありがとうございます。
    >言い換えると葬儀というのは喪主が故人の意思を尊重しながらも喪主自身が主体性を持って行うものではないか、
    はい、最終的にはその通りだと思います。
    仮に故人の意に沿わない葬儀になったとして、喪主が故人の子供だった場合
    その喪主を育てたのは故人なんだから
    回り回って故人にも責任の一端はあるはず
    という考えも成り立つかな、
    って思います。

  • コメントを残す

    このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください