落語と葬儀2

前回渋谷陽一氏のことを取り上げたので
今回は音楽編集者つながりで、この本を紹介します。

「落語評論はなぜ役に立たないのか」

タイトルを見ると、どこが音楽編集者つながり?と言われそうですが

著者の広瀬和生氏はあの知る人ぞ知るBURRN!の編集長なのです。
BURRN!と言っても
このブログをお読みになっている方の多くはご存じないと思いますが
日本を代表するヘビィメタルハードロック専門誌でして
大体表紙は長髪で強面(こわもて)の男性が革パンはいて写ってることが多いです。

 

恥ずかしながら
私の高校~大学時代の愛読書?です。(*^_^*)

 

ちなみにこの著者は東大工学部卒なので
落語、ヘビィメタル、東大工学部 と箇条書きにすると
全然共通項がない。(^^;)

 

で、この本は著者の落語好きが高じて
落語界の旧態依然とした部分に喝を入れた

内容となっています。

さてこの著者の落語と落語家に対する認識は
私の、葬儀と葬儀屋に対する認識に
ちょっと近いかな、と思うのです。

 

以下いくつか文章を抜粋してみますが、
落語→葬儀
落語家→葬儀屋
と読み替えてみて下さい。

(抜粋開始)

○落語は時代と共に変化する。
 
○「先人の落語を踏襲する古典芸能である」という誤解は
いつしか「常識」となっていった。
この「誤った常識」こそが20世紀末にかけて落語が衰退していった元凶であった。

 

○「古典派落語」というような言い方が普及したことで
あたかも落語には古典的な「演目のテキスト」が存在し
それを師から弟子へそのまま伝承すべきものであるかのような誤解が生じてしまった。
 
○「噺を教わってそれを自分の持ちネタとする」という過程を必ず経るがゆえに
工夫の無い落語家が「教わったものをそのまま演っている」場合もある。
実のところそういう落語家の数は実に多い。
だがそれは単にその落語家が「工夫する才能」に欠けているというだけのこと。

 

○志らくは、古典落語の骨格は崩さず、そこに現代のセンスを投入した
 
○伝統の中に生きるからこそ
「落語」という芸能のアイデンティティは保たれるのであって、
伝統を完全に否定してしまえば、それはもう落語ではなくなる。
しかし、伝統の中に身を置きながら「現代の観客」を相手にするのが、
落語という大衆芸能の本質である。
時代が変われば落語も変わる。
落語家は、時代に取り残されてはいけない。
(抜粋終わり)

 

いかがでしょうか?

 

もちろん異論のある方は多いと思います。

昨今葬儀の「原点回帰」をとなえる方もいます。

しかし・・・原点てどこ?
世代が一つ変わるだけでも、葬儀の内容は結構変わります。
果たして一世代前の葬儀が正解?

 

葬儀の正統性に対しては
以前書いたように送られる側と送る側にコンセンサスさえあれば
私はOKと思っています。
たしかに「伝統」や「型」はとても大事。
でもそれらを金科玉条の様に掲げるだけじゃなくて
お客様に評価していただけるよう時代に合わして変化させていくことも大事、

だと私は思うのです。
迎合、というんじゃなくて。

この論点に関しては今後詳しく触れていきたいと思ってます。

 

(参考記事:現代仏教は間違っている?

追記:なんでタイトルが落語と葬儀「2」なのかというと

以前「落語と葬儀」という記事を書いたことがあるからです。