お墓に関する私の思い出というのは
母が亡くなった直後から
半年間、学校が終わってから毎日墓参りに行っていたことでしょうか。
当時
亡くなってからの供養って意味ないよな
と思いつつ、
唯物主義は絶望から自分を救うためには何の役にも立たたず
ただ墓前に通う日々でした。
他にグリーフワークの手段がなかったというより、
グリーフワークという言葉や概念すら知らなかったので。
ただ、だれか助けて、という気持ち。
自分の感情をどう処理して良いかわからない中学生にとって
墓の存在は擬似的に母と対話できる場として
グリーフワークの役目を果たしてくれていたのだと思います。
実家の墓は結構立派です。
12畳くらいの広さがあって、20本くらいある石碑の半分は朽ちていて文字が読めない状態。なんとか読める石碑も
「この元号って江戸時代初期だよね・・・」
っていう感じで。
それ故に、代々、命が引き継がれてきた
ということを認識することができます。
今は亡き父は墓の手入れを熱心にやる人でした。
私の父も両親(つまり私の祖父母)が夭逝(ようせい)していたのですが
自分も同じ立場になると父の気持ちがいくらか分かります。
この世にいるっていうことがいかに脆弱(ぜいじゃく)なものなのか、と思えると
先祖があってこの世に自分がいるという感謝の気持ちを表さないといけない、
って気持ちになります。
そう思うわりには最近墓参りに行っていないのですが・・・
以前も書きましたが
原理主義的に仏教を信仰することより、
あちら側に行ってしまった人が生前信じていたことに対するコンセンサスをこちら側にいる人が共有することが重要だと私は思っています。
(参照ページ:現代仏教は間違っている?)
おそらく父はそれほど熱心に仏教の教義を信じていたとは思えませんが
父の両親が仏教を信じていたというコンセンサスを
私と同じく重視していたのではないか、と思うのです。
自分が墓参りをするのも、
父が先祖信仰というシステムを信じていたと、信じているから。
そうやって代々引き継がれてきたコンセンサスを
父親と共有している状態というのが
私にとって重要。
しかし最近、立派な墓も、その管理をもてあまし気味
でもこの世に生かしてもらってんだから
それくらい我慢しろよ、
とも思います。
とはいうものの今もって両親の墓石は立てていません。
石屋さんにお金払って墓石を買うのは、
自分の中ではなんかちょっと違うのです。
ブッダガヤあたりに乗り込んで、一抱えぐらいある石を日本に持ち帰って
墓に置くっていうのが、自分の気持ちにぴったり来ます。
実現のめどは立っていないのですが。