今回紹介するのは2020年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したこの作品。
この本を手に取ったきっかけは、以前私が万葉集に興味を持ったとき、氏の著作を読んだことがあったからです。
あらすじ
この本は、自身が子供時代に体験した祖父の葬儀から始まります。
商売で大成功した祖父は巨大な墓を残して亡くなるのですが
その後、遺族はその墓の維持に困り最終的には手放すことに。
さらに祖母が亡くなり、兄が亡くなり、最後は母の介護に追われて、家族葬で終えるまでの、上野氏の葬儀体験と、葬儀に対する考察がこの本の大まかな内容です。
祖父の葬儀と、約50年後に行われた母の葬儀は上野氏の身の上に起こったことですが、
結果的に墓じまいと、大規模葬から家族葬の変化という、半世紀における日本全体の葬儀の変化を体現しています。
具体的にはこんな内容です。
巨大な墓→持て余して改葬する
商売で成功した自分の人生の証しが、祖父にとって巨大な墓だったわけです。しかしそれは1階が納骨室で2階が墓という2階建てで、祖父の死後修繕費を払えなくなって祖母が納骨されただけでした。
最近の墓じまいという言葉に代表されるように、程度の差はあれ、同じ問題に直面している人は多いでしょう。
私自身もそうです。
妻など身内が死者湯灌を行う→葬儀業者に任せる
故人の妻が行う習慣になっていた湯灌(故人の体を洗って清める儀式)を
妻にとって、愛する人の身体を 愛 おしむ最後の時間
であると筆者は考察していますが、母の湯灌は最終的に葬祭業者に任せることになりました。
地域共同体による盛大な葬儀→故人の知り合いのいない地での家族葬
祖父は商売で成功したので盛大な葬儀が行われました。一方母は、晩年認知症を発症したこともあり、生まれ育った地を離れ、病院をたらい回しにされたあげく、身内だけの葬儀を行うことになりました。
葬儀スタイル
筆者は後半で自分の選択した葬儀のスタイルに考察を続けます。
厚葬/薄葬、礼教/反礼教の揺れのなかで、私たちは葬儀のありかたを選んでいるのである。いや、そんな言いかたは生やさしすぎる。悩み、あえぎながら、葬儀のありようを決めてきたのだ。そして、それは現実を生きるわれわれの生きかたそのものなのだ。葬儀は、生を映す鏡なのだ。
私たちは、ただ漫然と昔のとおりに儀礼をおこなっているわけではない。一回一回、なぜこんなことをするのか、考えて執行しているのだ。もっといえば、なぜ時間やお金をかけて、こんなことをしなければならないのかと考え、時に苦しみ抜いて、一回一回儀礼を執行しているのだ。
上野氏は葬式の自由化には批判的です。
死者に個性があるのか、と。 また、私は、思う。死者に個性があったとして、その個性を葬儀に反映しなくてはならないのか、と。そして、そもそも、個性というものは、競いあいのなかから生まれてくるものなのか?
葬式も自由であるべきだという言説について、これを苦々しく思っている
上野氏は葬儀の自由に批判的ですが、私は違うと思います。
氏はおそらく自由という言葉を「規範の無さ」という意味で使用しています。しかし私の考える葬儀の自由は、多様性であり、選択肢の豊かさなのです。
かつて、何も考えず、周りと同じお葬式をしていれば良かった時代から
信仰心のの希薄化・地縁血縁社縁の喪失・衰退する経済と引き換えに、我々はそれを手に入れました。
家族葬をしても「周囲に義理を欠いた」と言われることもなく、直葬にしたからと言って「故人が成仏できない」と言われることもない。
伝統的な型にハマってしまってもいいし、型破りでもいい。
重要なのは「自分が選んだ葬式が間違いではなかった」と胸を張れるか、ということです。
後悔したのであれば、それは「葬儀の自由」にあぐらをかいた生者の責任です。
お葬式はやり直しがききませんから。
だからその「葬儀の選択」に至るまでの、考え抜く行為が重要です。
もちろん、週刊誌で読んだ芸能人の誰それみたいに火葬のみで、という主体性を放棄する自由もあれば
そんな縁起の悪いことなんて考えたくない、という自由もあります。
当然結果に責任は生じますが・・・
一見、葬儀が自由になったかのように見える社会でも、上記で引用したように考えることは要求されます。
「遺体を保全するには、クーラーかけとけばいいんでしょ」というデマが今年ネット上で広がりました。
考えることを放棄したあげく、デマ情報に飛びついて、葬儀で失敗するなんていうのは論外。
多様性が、たやすく葬儀の失敗につながる時代を我々は生きています。
人によっては、必ずしも自由が幸福とは限らないのです。
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