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「葬いとカメラ」の書評




今回ご紹介するのはこの本。

「葬いとカメラ」

読もうと思ったきっかけ

この本を読もうと思ったきっかけは

  • この本の出版社である左右社さんの書籍に寄稿したことがある
  • 山田慎也先生(主に葬儀を研究されている民俗学者)が参加している
  • 「弔い」について語っているのなら、葬儀業界からのアンサーがあるべきだけど、やるとしたら俺か・・・(笑)

というもの。とくに3つ目が重要でした。

この本が出版されるという話を聞いたとき
てっきり「葬送の場における撮るという行為全般について」がテーマだと勝手に思い込んでいました。

たしかに山田先生のパートは私が予想していたものに一番近いのですが、
正確には「芸術家と学者が葬送の記録動画を撮ることについて」というテーマで語り合い、それが書籍化されたという次第です。

葬儀を撮影することの暴力性

さて山田先生がメインで登場する本書のプログラム2では、葬儀を撮影することの暴力性について議論が行われています。

ここで思い出したのは約20年前、あるテレビ局のドキュメンタリー番組の撮影対象として、私が密着取材を受けていたケースです。
当時はまだテレビに勢いがあった時代でしたから、撮影クルーはトータルで1ヶ月くらい私に張り付いていました。
その過程で、どうしても本当の葬儀の現場の画像が欲しい、という話になり、
ディレクターが通夜前の段階で喪主に「撮らせてください」と直談判を始めることに。
運良く最初のご喪家から撮影許可が降り、最終的にゴールデンタイムでその模様が流されました。

この手法はかなり「暴力的」なはずなのですが、当時そこには暴力的な雰囲気はありませんでした。

その線引きは
遺族から見て

  • 撮影者が自分たちの共同体の、外側いるか、内側にいるか
  • 自分たちに利益があるかないか
    ということでしょう。

この本の中で、撮影許可を取っているにもかかわらず暴力性が議論されているのは

    • 撮る側が外側の人間で
    • 遺族になんの利益も与えていない(≒撮る側だけに記録動画素材の蓄積という利益が生じている)
      からでしょう。

山田慎也先生は、注意深く時間をかけてラポール(研究者と調査対象者の信頼関係や親密性)を形成することで、この問題をクリアしたようです。

私のケースは

  • 遺族とあまり面識のない人が、会社関係のつきあいでたくさん参列しており(その頃そういう葬儀は珍しくなかった)、ある程度「外側」に開かれていた
  • 当時はテレビに映るというのは特別で価値があった
    というところが大きいと考えています。

撮影当時、私は社内では中堅で、年間施行件数が最も多いスタッフだったのに
番組内では演出上「下積み中の新人葬儀屋さん」という扱いにされていました。
というわけで、私に対しては暴力性はあったなと(笑)

それから暴力性の線引きのポイントとして
撮られる対象が

  • 遺族のみか
  • 故人を含むのか

というのも問題になるでしょう。この点に関連した考察は以前、こちらの記事に書いています。

お葬式の写真の撮り方

故人を撮ることの「暴力性」に関しては、最近読み返した「金閣寺」の一節が近いと感じました。
主人公が棺に収められた父と対面する場面です。

屍(しかばね)はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、
見るということが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、
残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった

あの当時から年月を経て、スマホが日常生活に不可欠になり、ZOOMやYouTubeによって動画が全世界に配信される時代になったことで
「撮る」「撮られる」意識は確実に変わりました。

その意識の変化は、非日常の葬儀の現場にも、さらに深く及んでいくことでしょう。

葬儀社のオンラインサービスの賢い使い方

 

総評・・・一般読者には分かりづらいのでは

最後にこの本の全体的な印象です。

編者が努力しているのはわかるのですが、正直申し上げて、一般読者向けには分かりづらい構造になっていると思いながら読み進めることになりました。

そもそもこの本、最初は専門家(芸術家と学者)が合宿して対談するだけだったものが、自費出版で関係者に配ろうという話になり、最終的には一般書籍化までたどりついたという経緯を経ています。
この努力の過程は十分評価したいのですが、一般読者に分かるように仕上がっているとは言いがたいです。

主な原因は以下の4つ。

専門家の情報が足りない

各専門家の立ち位置や思想を、読者は詳しく知らないため、分かりづらくなっています。

もちろん各人の簡単なプロフィールは載っています。
ただそれだけでは個々の発言を理解するためのバックグラウンドとして弱いです。

一般読者の想定をしていない

先程述べたように元々専門家同士の研究合宿だったため
議論が、専門家同士を対象としており、一般読者を想定していません。
書籍化を前提としていたら、もっと分かりやすく話していたのではないでしょうか。

映像がない

学者はネットでおおまかな業績を、ぱっと調べることができます。しかし芸術家、それも映像系となってくると実際に映像を見てみないと、その人が普段どういう立ち位置で、どんなことを考えているのか見えてこないのです。
紙媒体であることの限界です。

発言者が多い

さらに発言者が多い(9名)ので、個別の発言の文意はなんとなくわかるのですが、私には主旨や文脈がうまく追えませんでした。
特にアート側の人が何を言いたいのか、ピンとこない所が何点かありました。これも映像作品を観ていたなら、分かるところもあったかもしれません。

唯一メンバーの中で、山田慎也先生のみ、一貫して話していることが理解できました。それは私が葬儀の現場の人間というのもありますが、先生の著作を読んでいたことで、思想や主張が理解できていたから、というのが大きいです。

と、不満に思っていたら最後の「総論に替えて」で、編者は、私が感じた問題点に対して、かなり自覚的であることが分かりました。
なんとか一般読者に読んでもらえるよう努力をした跡がうかがえます。
でも成功しているとは言いがたいのが残念です。

こんなに不自然なくらい後書き部分にページを割いて、制作過程を語っているということは、当事者の忸怩たる思いがあったのでしょう。

例えばNHKがドキュメンタリーとして扱ってくれて、この対談で鑑賞された作品を挟み込んで映像作品として見せてくれたなら、もっと参加者の意図がうまく伝わったと思います。

以上がこの本の感想です。











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