家族葬の失敗例

家族葬におけるケガの功名的な話です。

家族葬とは

まずその前に「家族葬とは何か」の説明から。

お葬式に友人やご近所の方が参列するケースが普通だったころは
「本葬」と併存する言葉として「密葬」があったようです。
「本葬」に外部からの参列者をお呼びするので、
その前に身内だけですませるお葬式を「密葬」と呼んでいたようです。

ここから転じて、本葬を行わない場合でも、
身内中心の式を「密葬」と呼ぶようになりました。

しかし密葬では意味がわかりづらいので、関西の葬儀社が商売上
消費者に意味が伝わりやすいように
「家族葬」
という言葉を作り出したと言われています。

つまり「家族葬」という言葉は宗教上の概念ではなく、
あくまで商売上生み出された言葉であり
厳密な定義はありません
「家族を中心としてとりおこなう、小規模な葬儀」
くらいの解釈でよいと思います。

家族葬は何が違うのか

たまに
お客様から「家族葬と普通のお葬式と何が違うのか?」
とのご質問を受けることがあります。

先程述べたように、宗教者・葬儀社の視点で見れば
家族葬はお葬式の参加者の人数が多いか少ないかだけの問題です。
なにか宗教儀式や手順が省かれることはありません。

われわれ葬儀社サイドとしては、
家族葬は必然的に参列者が少なくなるので、
小さい式場を提案したり、
準備するお返し物やお料理のボリュームを少なくしたりします。

その結果「家族葬」は低価格化するという傾向はあります。

家族葬の失敗

さて本題。

家族葬をご希望された、あるご家族のお話しです。

ご主人がお亡くなりになり、喪主である奥様と、お子さんの意向は
「家族葬」で行いたいということでした。
ただしご主人の特に親しかったご友人は5名ほど呼びたいとのこと。

葬儀屋さんならお分かりいただけると思うのですが
「身内だけにしか知らせない」と「関係者含めて全員に知らせる」
は簡単なのですが
「一部の関係者を限定して呼ぶ」は失敗してしまうことが多いのです。
最近は携帯電話やメールなど通信手段が発達したこともあり
参列の誘いをかけられた人が情報を漏らすと一気に伝わりやすくなりました。

喪主様にはそのリスクを説明した上で
・お伝えするご友人には「家族葬」である旨を伝えて、
情報を漏らさないよう念を押すこと
・万一漏れた場合の状況を想定して、できるだけの対策を自分が講じる
ことをお伝えしました。

その後、やっぱりというか「式場と日時」の問い合わせの電話が
10件以上かかってきました。(^_^;)

結局両日で100名ほどが参列されました。
この人数は「想定内」であったので
特に混乱無く葬儀を終えることができました。

仕方ないことだとはいえ家族葬ではなくなってしまったので
御遺族としては不本意な結果であろうと思っていたところ
「良かった」との感想をいただきました

もちろん認知不協和の回避の可能性も考慮すべきところですが
(参照ページ:お客様アンケートの評価を信じてはいけない!

どうも本心からおっしゃっている様子。

詳しくお聞きしてみると
「たくさんのご友人が来てくれて言葉をかけてくれた。
そして自分の知らない故人のエピソードが聞けた。
それで故人が多くの人に慕われていたことが分かってうれしかった。」
とのこと。
以前書いた記事にも関連する内容でした。
(参照:通夜の時間

だから家族葬はやめておきましょうという、という話ではなく
家族葬に失敗しても、こんなケガの功名もある
という話です。

参列者が多くても葬儀費用負担が増えるわけではない

補足です。

参列者が予想より多くお見えになったことで、
お返しものと食事代は多めにかかりました。
しかし参列者は御香典も持参されたので、香典の半額にあたる香典返しの分を差し引いても
参列者の増加分は赤字にはなりませんでした。
参列者が持ってきた香典の金額≒お返し物の代金+振る舞う料理の代金+香典返し
という等式が成り立つのですね。

私は葬儀屋さんなので、この記事を、
家族葬をやめさせて参列者を呼んでもらうことで葬儀費用をつり上げるためのポジショントーク
と取られる方もいらっしゃると思います。
しかし社会状況の変化で、家族葬をやめて関係者全員に告知しても
参列者はやっと100名を超える程度のお葬式が多いのではないでしょうか。
外部の参列者が増えたことで増加する返礼品と料理は
私の会社の場合外部委託しているので、
表面的な売上高は増加しますが、
スタッフの仕事量が増える割に利益はあまり増えないです。
念のため申し上げておきます。




9件のコメント

なるほど・・

「家族葬」についての定義がよくわかりました。
「失敗」なんてタイトルだから
ちょっとドキッ☆として読んだのですが・・

携帯電話を皆さまがお持ちになっている時代です。
「〇〇さんが亡くなられた」なんていう話はメールで伝わってきます。
ひっそりと・・なんてムズカシイかも^^;

改めて「どういうカタチがいいのか」
考えてみる良いヒントを頂きました。

riko様、コメントありがとうございます。
> ちょっとドキッ☆として読んだのですが・・
すいません、驚かしてしまいまして(^_^)

病院で80%のヒトが死亡し、在宅や福祉施設を含めると90%以上が死亡する医療(福祉)現場では、グリーフに関する考えが確立しており、医療にも実践されています。
これは、「後悔が少なければ、悲嘆からの回復が早い」と言われているためです。

心肺が停止し、蘇生の可能性がほとんど無い患者さんに心臓マッサージを行うことや、癌で確実に死が訪れる患者さんに対しても医療を放棄せずに、死を迎える最後まで最善の医療を続けることも、結果的には無意味な部分があり、国の財政を圧迫する部分もありますが、これは残された家族グリーフや患者さんの人権や人格を最後まで守る目的もあります。

結果としても死は避けられませんが、そのプロセスがグリーフには重要であり、「充分な医療を受けた上での死」と「充分に医療を受けなかった上での死」では家族の悲嘆からの回復がまったく異なります。

上記の考えは、葬儀にも当てはめられると考えています。
本人(故人)が生前からジミ葬(家族葬や直葬)を希望していたが、家族の判断で一般葬を行った場合は、葬儀自体は満足が出来るものであったが、故人の意思を尊重しなかったことでの後悔。

故人の意思を尊重しジミ葬を行ったが、家族(特に喪主)の望む葬儀形態(一般葬)ではなく、後悔が発生する場合。

近年では葬儀に関する公正証書の作成や、遺言ノートがベストセラーであり、死亡者本人の希望と残された家族の希望が大きく異なることが増加しています。
死について考える、語る機会は増加していますが、全ての人達が満足する葬儀(後悔しない葬儀)は非常に難しく、誰のための葬儀なのか、誰が後悔することが問題なのか等を考える必要があります。

確かに死亡したヒトには人権も人格もありませんが(先日の裁判報道でもそう感じた)、死者の尊厳という意味では生前の意志は重要な部分もあります。

 エンディングノートに書かれる本人の希望と遺族の感情のズレの解消は私もひとつの課題と思っていました。
 そこで先日ある教会から発題に呼ばれた際には、有意義なエンディングノートの書き方として「本人が口述し、喪主予定者が記録する」という方法を提案してみましたが、一般的な日本社会の感覚ではまだ難しい試みかもしれません。
 しかし少なくとも自分の死や葬儀について考えるなら「誰が自分を看取り、葬ってくれるのか」というところから想像することは重要だと思います。
 メディアも「自分の想いを残す」だけでなく、「委ねる相手を想像する」という感覚を養うような報道に努めていただければありがたいですね。

これらに関するビジネスは、社会問題を(高齢者や独居・核家族の増加等)に伴う「第3の葬儀ビジネス」と分類しています。
また、エンディングノートに関しては、著作権や特許、商標を主張する企業や団体が出てきており、エンディングノートの名称を使うことは問題が多く、遺言ノートとの総称を使用する様にしています。

故人の考えと施主(喪主等)の考えにギャップがあればあるほど、「ビジネス・チャンス」が大きくなります。
そのために、主としてNPO等の団体がビジネスとして
生前の意志を明確にするために、公正証書や遺言の明文化を行わせており、そのために弁護士事務所や司法書士事務所・行政書士事務所と組んで業務を行っています。

台湾では政府が管轄し、葬儀社が生前契約で保障した事項が実行されるかを確認し、生前の意志を確実に実行している葬儀社を認証しています。
これは日本でも大きなビジネスとなっており、葬儀団体や葬儀社がこの分野に参入しないことが不思議でなりません。
葬儀社不審が高まれば高まるほど、この分野は亢進します。
そのために、島田先生をはじめとした今のメディア(一般者向け)は追い風になっています。

>エンディングノートの名称を使うことは問題が多く、遺言ノートとの総称を使用する様に

 なるほど。しかしそうすると、民法上の遺言と区別するためにも「遺書」という用語にもう一度落ち着く必要があるかもしれませんね。ただ現在の日本人はこの言葉がかなり嫌いですから難しいかもしれませんが。

 日本で自分の葬儀に関する公正証書遺言等の普及が進まない背景には、日本人独特の「遠慮」があるんだとは推察できます。遺族を信用してないようでイヤだ、とか。
 まあそれよりも、手間とお金をかけてまで自分の葬儀について特別の希望を残すほどのこだわりはないという人がほとんどだとは思いますけれど。

 何にせよ、あまり商業化ばかりが目立つのは好ましくないと個人的には思います。本当に日本人の葬送がより豊かになるための模索であればよいのですが…

文具店ではコクヨ、書店では週刊ダイヤモンド、葬儀社では○○○○、司法や行政事務所では独自の物、ネットでもエンディングノートが数多く公開されており、「元祖と本家の争い的」な状態を静観しています。
また、遺言に関する考えは京都の3兄弟の争い(帆布屋)を見ると、昔の日本人の感覚は通じなくなったと考えています。

本来、遺言などは資産の多いヒトの問題でしたが、葬儀内容を法的拘束を持たせる現状の流行は、確かに残された遺族や葬儀社を信用していないとも受け取れます。
しかし、本来の遺言での葬儀内容の指定は「残された家族の手を煩わせない」ためであったはずですが、目的よりもビジネス部分が拠出してしまいました。
目的が明確でないために、依頼する施主側にもブレが目立ちます。

prof様、 高見 晴彦様、
コメントの返事が遅くなりまして申し訳ありません。
諸事情で三日ぶりに帰宅してPC見たら、
(勤務時間中はブログにアクセスしないという自分ルールがあるので)
テキストボリュームが随分増えてました(^^;)
ありがとうございます。
エンディングノートについては
一度述べてみたいと思います。

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