以前からそうだったけど最近喪服を着る人がさらに少なくなりました。
着物産業はどんどん規模を縮小しています。
私自身ずっと以前から着物を着てみたいという気持ちがあります。
浴衣はたまに着るのですが、羽織をまとうようなちゃんとした着物は着たことがありません。
なぜなら高いので買えない。
体格的に古着では見つからないので、仕立てるしかないのですが
軟禁状態で高級品のみを押し売りするようなビジネスモデル?に辟易しています。
今時葬儀屋ですらそんなことはしないのに(^^;)
今時葬儀屋ですらそんなことはしないのに(^^;)
もちろんちゃんと探せば良心的なところはいくらであるのだろうけど。
次第に買う気が失せるというか、だったらスーツを仕立てた方が・・・
と思いなおしてしまいます。
私のように感じている人は多いんじゃないでしょうか。
着物業界は危機感を持ってもう少し広い視野で将来のことを考えてくれればいいのに。
「伝統」という錦の御旗の元で思考停止になっているというか・・・
さて突然ですが最近日比谷花壇から供養セットが販売。
いいな、コレ。
機能的でキレイで安い。
マンションなどのコンパクトな住環境の中でも設置しやすく、(中略)火を使わないキャンドル風ライトやフレグランス、水やりの必要のないプリザーブドフラワーがセット
よく考えられています。
プリザーブドフラワーの部分で日比谷花壇さんのブランド力が機能していますし。
以前から日比谷花壇さんは葬儀も手がけていますが
「見せ方」と「程よい革新性」に関しては見習うべき点は多いと思うのです。
自分の勤める葬儀社は仏壇も販売しているので
あんまりこういうことを言ってはいけないのですが
この供養セットのせいで売れるはずだった普通の仏壇がいくつか売れなくなるでしょうね。
あんまりこういうことを言ってはいけないのですが
この供養セットのせいで売れるはずだった普通の仏壇がいくつか売れなくなるでしょうね。
「伝統」だからと何も考えず
消費者にとって付加価値のない商品しか扱えない産業は
いずれ駆逐されてしまうのかな
消費者にとって付加価値のない商品しか扱えない産業は
いずれ駆逐されてしまうのかな
と思った次第。
自分のいる葬儀業界も含めて、ですが。
我が家の仏壇を購入した時を思い出しました。
1軒目は「とにかく、仏壇とはこういうもの!」というスタンスで客の意見を聞かない。
檀家になっていないと売れない、ぐらいの勢い。
別に仏壇にこだわりはなく、故人を偲ぶにふさわしい物なら何でも良かったけど。
2軒目は対照的で、すぐ気に入る物が見つかり契約。
1軒目はいつまで営業続けられるか?
妻が成人式で着た振袖は300万円もしたらしいのですが三姉妹で着まわし、16歳の私の娘が着ることも出来、更には3歳の姪が将来着ることも問題無いでしょうし、それが楽しみでもあります。スーツもそうですが、着物はスーツ以上に品質の良いクラシックな物は長く使えます。
それにフォーマルな場ではやはり捨てがたい、洋装以上の魅力があります。(キャバクラとクラブの違いでしょうか(^^))
反面、日常着としては浴衣以外は壊滅状態で、その浴衣にしても季節の風物詩なので市場規模は縮小していると思いますが、品質が良く価値があればまだまだ需要もあるでしょうし、また海外展開も可能です。
フォーマルと趣味の世界を更に進めるのか、個人的には楽しみです。
対して仏壇業界はどうでしょうか。明るい未来を感じる事が難しくなっている今の時代は本来、宗教が必要とされるている時代だと思いますが、カジュアルな世界観と宗教観が相容れない気もしますし、供養の世界から宗教性が失われていくのでしょうか?仏壇の持つ根本的な価値観が問われているのかもしれませんね。
いずれにしても洋の東西、業界問わずに本当に良い品質の物や技術がだんだん失われているように思います。
私は幼少のころから着物等の和のものにはまったく惹かれなくて
洋物かぶれでした。グローバル社会の中で着物は保護対象博物館行きでしょうかね・・・??
はっちゃん 様
仏壇も斜陽産業のはずなんですけどねぇ・・・
ななし 様
丁重なコメントありがとうございます。
>日常着としては浴衣以外は壊滅状態で
そうなんですよね。
せめてU10万円の商品がもっと増えればと思います。
かかし 様
このままいくと危ないですよね。
2軒目の店員さんいわく、伝統的な金仏壇等は現在ほとんど売れないとか。
そちらのお店には様々なタイプの仏壇や供養セットが展示され、
「祈るカタチよりキモチ」とかいうコピーが表示されてました。
1軒目は「伝統と共に滅びる」覚悟を決めたのでしょう。
着物ですが、自分は体格的に全く似合わず残念です。
はっちゃん 様
>「伝統と共に滅びる」覚悟を決めたのでしょう。
実は覚悟が全く出来ていないことが問題なのかもしれません。
常々伝統について思うのは「伝統は「譲れない上限基準の程度」を示すべきだ」ということです。
例えば、歌舞伎は今でこそ日本の伝統芸能として成っていると見られますが、もともと歌舞伎は〔かたぶく〕つまり風紀を紊乱したり過度な贅沢をしたりする行為として弾圧さえされましたし、歌舞伎の担い手も邪道とか屈折と罵られる…「とがっている」存在だったはずですし、それゆえ庶民のポップカルチャーだったはず。
しかし上流階級の社交の場・大衆教化の具として「守るべき」文化になった時から、歌舞伎はもはや庶民の文化でなくなったのですから、和服と同じように若年世代からの興味が薄らいだのは当然の成り行きでしょう。ところがこの事態を打開しようとする時決まって障害になるのが「これは伝統的な●●の体を保ってない」という言説です。
〔伝統〕とは規範的な存在として受け継がれてきた事柄やそれを受け伝えることですが、しかし〔伝統〕が伝統たるためには、現在に於いて今見えている物ではなく、過去存在したという事実がなければなりません。仮に伝統が存在し続けるなら、現在における伝統に連続性が有るかないかは、未来から考察され返された過去としての現在という認識に立って判断されなくてはいけないのです。
伝統は一瞬の固定的な形式ではないし、伝統は歴史を流らう中で有機的に人の手を渡ってきたものです。歌舞伎の伝統はある意味若者のハチャメチャ行為ですし、葬式の伝統だって開祖仏陀は「お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな」と言ってますから、伝統とは一時期の形式を保つことじゃないのが解ります。基準を保持し続けるよう努力されたから伝統は伝統として成ったのですし、伝統が本当に守られなかったのかどうかは未来の人間にしか分かりません。現在にとっての伝統を守りたいのは構わないにせよ、伝統は伝わらなければ学べないのです。
(承前)
伝統にとって本当に「守るべき」ものは「譲れない上限基準の程度」であり、ある時代に於ける形式ではないと思います。むしろ伝統を表現するための形式や制度といったツールは、その時代の中で「とがっている」ことで「譲れないもの」を一人でも多くの人々の手にしていこうとした結果だったはずです。
だから、形式のみ拘って伝統と気張っていても、それは最早信仰であり、伝統を引き継ぐことになれないと思います。そして、世代には世代ごとの創造力や価値観があって若者には若者の創造力があるのですが、若者に対して与えられる批判はただそれを理解出来なかった、しなかった結果に過ぎないのです。
そのため、伝統の担い手たちは「これはどういう理由でこうなっているのか」を説明できるリテラシーをちゃんと持ってほしいです。説明出来ないならそれでお終いだし、出来るなら現代の都合とすり合わせて伝統を再解釈しながら次世代へと繋いでいけるはずですから。
それでももし伝統を一時期の形式として扱うなら、別にそれでもいいですが、惜しまれつついっそ消えて行くことも清々しいと思います。丸の内の「東京銀行協会ビル」みたいに、開発と伝統がせめぎあった結果かえって無残なことになるよりは。
BLOG『SOFIAの見つめる世界』より、【援交女子高生に無償でゲーマンをあげたら、その子は一日満足できるのか?③】
SOFIA 様
丁重なコメントありがとうございます。
>伝統の担い手たちは「これはどういう理由でこうなっているのか」を説明できるリテラシーをちゃんと持ってほしいです。
そうですよね。葬儀の中の宗教作法って、「これ、あとから理由考えたんじゃないの?」というのが、結構あります。
装いについてはほかにも要因があるとするならば、和装を装うことが形式・形骸化し過ぎた感は否めないかなと思っています。家紋や着方への他者からの陰口も相当に足を引っ張っているのではないかと思われる話もたくさん伺いました。
あとは女性のおぐしの結い、髪のセットができない、着付けができない美容室に知り合いたちが当たったことが何度もあります。
そして温暖化とともに安定しない気温差と災害、ことに雨の異常化レベルなどもかなり耳にします。
それでも本物は生き残るのだと私は思っています。
少なからず人類発生からの歴史を振り返ると、そういった傾向が繰り返しながら淘汰されているように。
本物は法則に沿った普遍性を現したものだそうですから。
先祖供養に関していえば、中には線香のにおいをクサイと攻め立てたり、嫌がらせまがいのことを平然と行っているような話もよく聞きます。それでやむなく中断せざるをえなくなった知り合いも割といますので、どうにかよい切りかえしの時代にはなりたいところです。
karasu 様
丁重なコメントありがとうございます。
>本物は法則に沿った普遍性を現したもの
なるほど、言われてみれば確かにそうですね。