今回は日本の仏教は正しいのか、という議論をしたいと思います。
私のいう「正しさ」を別の言い方に代えると
(日本の仏教って)「信じていいの?」ってことだと思うんですけど。
そもそもこの議論が難しいのはまず
いわゆる神学論争になってしまうという問題があります。
同じ宗教のA派の考えを引用すると、B派は違うという。
外部からみたら君ら仲間と違うの?という感じなんですけど。
後述しますがそもそも仏教は変化・分裂しすぎ。
変化・分裂したのはそっちの事情なんだから
そっち(仏教界で)意見まとめておいて欲しいんですけど。
日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫) 末木 文美士 新潮社 1996-09-02
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私が仏教の専門的な話に踏み込まないと決意したのは
橋本治の「仏教は深く考えず、そういうもんだ程度のつきあいでいい」
という主旨の文章を読んだとき。
末木文美士の著作の後書きを書く橋本治レベルでさえこう言うのだから
私が深入りするのは無理。
各宗派の僧侶は自派の教義を極めればいいけど
葬儀屋さんである自分はどの宗教も平等に扱わねばならない立場なので
広く浅く行きます。
そんなわけで私の今回の議論は専門家に対してではなく
平均的な日本人(毎日お経を唱えるわけではないけど、お葬式は仏式でやる)に向けて行います。
私は葬儀屋さんなので「弔う」という視点から仏教を考える、と言ったらいいかな。
私の考えが正しいとかではなく
私の考えがいいと思ったら共感してよ、
程度のニュアンスですね。
だから 申し訳ないですけど宗教界から論戦挑まれてもスルーです(^^;)
いわゆる神学論争(仏教だけど )をする余裕がないもので。
さて日本の仏教ってちょっと特殊ですよね。
いわゆるミクスチャー宗教。
日本教と言ってもいいかもしれない。
この経緯を振り返ってみると・・・
インドで生まれた仏教は中国に伝わった段階で
儒教と混じり始めます。
儒教には倫理的な側面と礼(儀式)的な側面があったから
儀式的な領域でどんどん儒教が混じっていったのは理解できます。
(土着宗教である道教の影響もあったみたいですが、ここでは省きます)
そして日本に伝わった段階で今度は神道と混ざり始めます。
正確に言うと日本に伝わった仏教には儒教が「混じって」いたが
本地垂迹説からも分かるように
日本では神道と交わったというより共存していたというべきでしょうか。
完全に混じってなかったから、
明治時代の廃仏毀釈がやれちゃった、とも言える。
日本以外の地域だと新しい宗教が入ってくると既存宗教を排除していくのだけど
日本の特殊なところは 共存させて積み重ねていったところ。
この奇妙な宗教形態のきっかけを作ったキーパーソンは聖徳太子。
彼のやったことは日本人の宗教に対する特殊性を語るうえで欠かせない。
彼は天皇の甥っ子だから本来は神道のはず。
でも歴史の教科書で習ったように、
仏教推進派の蘇我氏と組んで、
お寺を建立したことからもわかるように
仏教推進派でした。
でも別に神道を捨てたわけでは全然なくて、
「敬神の詔(みことのり)」という宣言も出している。
そして十七条の憲法は儒教の影響を受けている。
つまり聖徳太子は仏教を儒教や神道と共存させたわけです。
ここで聖徳太子は実在しない説や、
伝説が多い説の反論が存在するのだけれど
重要なのは後世において聖徳太子が崇拝の対象となったこと。
つまり聖徳太子の思想が日本人にとって受け入れOKだったってこと。
聖徳太子に始まった、この仏教・儒教・神道と等距離に立ち続ける日本人の信仰形態は
後世に引き継がれていきます。
江戸時代に広まった石田心学も仏教・儒教・神道の各思想の影響下にあることを考えると
この思想はずっと「無意識に」続いていたようです。
象徴的なのは七福神かな。
こんな経緯のせいで
現在の仏式のお葬式は仏教・儒教・神道が混じり合っています。
一見仏式に見えて実は
位牌・・・儒教
遺体崇拝(本尊よりも故人を拝む)・・・儒教
先祖供養・・・儒教と神道
清め塩・・・神道
お経・・・ごく一部儒教(盂蘭盆経のようにインドの翻訳物ではなく中国で創作されたもの有り)
こんな具合。
そしてここからが重要。
日本の仏教を否定する人の多くはこの現状から
本来の釈迦の教えから遠く離れてしまった、だからダメ
と言います。
正統性を問題にしている、とも言えるかな。
でも宗教って多かれ少なかれそういうもんじゃないかと思うんですね。
たとえば自分の言ったことが3日後には、
違う解釈をされて伝わってしまうことってたまにあるじゃないですか。
だったらインドで2500年前に言われたことが
ちゃんと伝わるかって言われたら難しいですよね。
他の宗教見ても発祥地から離れれば離れるほど
やっぱりいろいろな変化をしていっていますよね。
キリスト教がロシア正教になっていったり、とか。
ただデタラメな変化をしていっているかっていうとそうじゃないと思います。
伝来した宗教は土着信仰とくっついて変化することが多いと思うのですが
土着信仰ってその土地の文化や習慣にもとづいて
その土地の人がそうあってほしいと願う
形で作られているわけですよね。
逆にそうじゃない教え、例えばそこの住民には到底受入れられないような価値観の宗教は
あったとしても結局消えていってしまうので、そもそもこの世に残っていないわけですよね。
一方で変化するとは言っても原理主義的じゃなきゃね、的な力も働きますから
まったく原始宗教と違うものにもならないと思うんですよね。
そこでここからは私の意見なんですけど
宗教の「正しさ」って大体親子三代にわたって共通認識があればいい
って思っているんです。
たとえばおじいちゃんが信じていた
その土地の若干ローカル的な作法を含むある宗派の教えがあったとします。
そしてそれを孫が信じていれば
宗教としてOKだと思うんですよ。
なんで私がこう考えるのかと言うことなんですけど
私は実家に帰ったときはちゃんと墓参りをします。
菩提寺の宗派の形式でお経もあげてもらう。
その宗派の教えが「そもそも正しい」かどうかっていうのはあんまり考えない。
なぜかっていうと私の父はお仏壇やお墓の手入れをいつも丁寧にしてたんですね。
それって父の両親、つまり私の祖父母を供養するためですよね。
父がその宗派の今現在の教義に則って両親を弔っていたのなら、
父は自分が死んだ後も、子供達に自分と同じことをしてもらいたいと思うんですよ。
そう信じているから私も
今の教義に合わせてお参りをちゃんとやるんです。
だから多分宗教の中身って
100年200年レベルで徐々に変わって別のものになってしまうかもしれないけど
三代に渡って共通の認識があればいい、って私は思うんです。
それで「弔う」には十分役に立つ。
結論はみなさんそれぞれだと思うんですが
これが私の仏教に関する考え方です。
(参考記事:お墓の思い出)
だから日本の仏教は正しい
(追記:上記の文章で使用した参考文献は今度
別の記事にまとめます)
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