友人 御堂岡啓昭への弔辞にかえて

今回は私的な文章です。
この記事を書いたのは1年ほど前ですが、公開できずにおいていました。
先日愛犬が亡くなった記事を書いたとき親友の死について言及したので、もう公開してもいいいかと判断しました。
興味のある方のみどうぞ。

(2023年10月追記)
当初 「友人M」と表記していたが、彼の本名をタイトルに入れることにしました。彼のことを覚えていて、検索をかける人がいるかもしれないので。

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今回は友人のMについて語りたい。
内向的な私にとって彼は数少ない友人の一人だった。

友人というのは何をもってそう呼べるのか知らない。
ただ彼が先に亡くなることがあるなら、葬式で弔辞を読むのは私だろうと思っていた。
そういう意味では親友と呼んで良いだろう。

彼は2014年の1月20日頃亡くなったらしい。
亡くなったらしいという言い方になってしまうのは彼の亡骸に対面もしていないし、葬式にも参列していないからだ。当然弔辞を読む機会はなかった。
私よりいくつか年上だったので多分45歳にはなっていなかったと思う。

彼の死を知った直後に親御さんに連絡を取った。
しかし墓前にお参りすることを承諾していただけなかった。
私の知らない色々な辛い事情があるのだと思う。
命日(と思われる日)には毎年花を送っていたが三回忌が終わってからは、それも断られるようになった。
いずれ彼の墓参りをする機会が与えられると信じたい。

今回友人Mの実名を出して語ろうと考えたが思いとどまった。彼に対する誹謗中傷の書き込みがネット上にたくさん存在する。今やもう彼の名前で検索をかける人は皆無だと思うが、実名を書けばまたそんな書き込みにアクセスが行われてしまうだろう。

ネットの風評とは違う彼の一面を書きたいとずっと思っていた。
こんなに時間がかかったのは、この記事を書けるほどに自分の気持ちの整理がつきはじめたのが最近だからだ。

彼を擁護するわけではない。
彼の誹謗中傷が出回る責任の多くは彼の生前の振る舞いにある。
しかし問題のある奴だったとはいえ、確かに彼は大切な友人だった。
だから彼を良く知る者の一人として、語られていないことについて語る動機はある。

もし彼を批判するサイトを運営している方がこの記事を読んだなら、私はお願いする立場にないのは百も承知だが、まだ生きている彼の両親のためにサイトを削除していただけないか、と思う。

彼を批判している記事の信憑性に関しては何とも言えない。
そういう背景があったのだと気づかされる辻褄が合う記事もあるし、これは明らかに違うという記事もある。

彼のネット上の活動に私が疎いのは、電話とメールのやり取りを除けば数年に一度会うだけで、彼のネット上での振る舞いに興味を持っていなかったからだ。
彼も自分がネット上で行っていることについてはほとんど話さなかった。
おそらく自分のやっていることに後ろめたい気持ちもあったのだろう。
彼がネットについて熱心に語ったのは私にmixiを勧めた時ぐらいではなかったろうか。

私が彼の死を知ったのは、実際に亡くなってからおそらく半年後ぐらいのことだ。
亡くなる前年の秋頃に、今は熊本県にいるという電話での会話が最後になった。

その間ずっと連絡を取らなかったのは彼が私に金を借りていたからだ。
金を貸せば対等な友人関係でなくなってしまうということは十分理解していた。
それでも生活に困窮していた彼を見かねて何度か金を貸していた。
そうなると逆に貸した側から頻繁に連絡を取りづらくなる。

もちろん貸した金は返ってきていないが、そんなことは今となっては大した問題ではない。私もお金で苦労した時期があったので、多少は世間の道理はわきまえている。くれてやるつもりで貸した。
大した問題ではないと言えるのは、彼が亡くなる1年前くらいに、少しずつ借金を返したいので私の銀行口座を教えてくれと連絡があったからだ。
私としては金を返してもらえるのはいいことだが、おそらくギリギリの生活をしているだろうから、実際にかえしてもらうのはもう少し先でもいいと考えていた。返済の気持ちが確認できれば、実際に返す返さないは重要ではない。
だから銀行の口座は教えなかった。

彼は頭が良く社交的だったが、継続的な人付き合いがうまいとは言えなかった。
いつも距離感を間違えて他人に甘えすぎるのが欠点だった。
そして拒絶されると攻撃する。
それで人間関係をすぐにダメにしてしまう。
私と長く続いたのは私がそういう彼の欠点に寛容だったからだ。

引っ越しの期限日に急に私を呼びつけて、レンタカーのハイエースを借りて駆けつけたら、荷造りも準備もなにもしていなくて、さすがに腹を立てて帰ったことがある。
結局車中で彼の謝罪の留守電を聞いて、引き返したのだが。
今でも彼の声を思い出すときは、この時の広島なまりの謝罪の留守電の音声だ。

彼と出会いは大学1年の時だ。同じ大学の同じ学部学科でさらに学内の同じ士業受験の学内機関に在籍していた。住まいも歩いて5分ぐらいのところだったので仲良くなった。
私は料理全般ができたので多めに作ったビーフシチューを彼の家に持って行ったり、遊びに来た彼がさんまのみりん干しやひじきの煮物を美味しい美味しいと言って食べたり、そんな関係だった。

彼を知る人にとっては合点がいく学生時代のエピソードが一つある。

ある講座で試験に教科書を持ち込むか持ち込まないかを、教授が学生に話し合いで決めさせるということがあった。
持ち込みOKでいこうというなぁなぁの空気のなか、彼は持ち込まないということを主張した。
そしてそれに反対した学生に対し、矢継ぎ早に論陣をはってやりこめた。
常に敵と味方に人を分け、過剰に敵を潰しに行く悪い癖だ。その後の彼のネットでの振る舞いに繋がる素地はあったわけだ。

学生時代は私が彼の世話になった。私の成績の一部は優等生だった彼のサポートのおかげだ。

学生時代の一番の思い出は、私が大学3年生の時に父が亡くなってしまいお金に困窮していた頃の話だ。
ある日すまなさそうに私のところにやってきて、特待生の資格を取ったらその給付金をお前の生活に充ててもらおうと思っていたんだが取れなかったと詫びた。
こんな一面が彼にはある。

社会に出てから、彼の中には自分が評価されないという焦りがあったのだと思う。
そしてそれは年齢を重ねるごとに蓄積されていった。

親友の自分に対しても、いや親友だからか自分を大きく見せようとした。
2ちゃんねるのひろゆき氏と知り合いだと言いだしたときも、どこかで会ったことがあるくらいの話だろうと私は思っていた。
亡くなってひろゆき氏が彼の死を悼むコメントを出していたのを読んで初めてそれが本当だったということを知った。
さらにひろゆき氏が葬儀業界周辺に身を置いていたことを最近ある人物から聞かされ、その頃私はMからある仏教関係の人物に引き合わされたことがあった。多分当時からなんらかのつながりがあったのだろう。

新しいことを始めては人間関係をギクシャクさせて終わらせる。
そしてその果てにMがたどり着いたのが反原発活動だった。
正直彼がこの活動に携わったことについて私はよく思っていなかった。
福島の放射能より彼が毎日何十本も吸ってたタバコの方が体に悪いのは科学的に明らかだ。
彼は左翼的活動が好きだったわけではない。
ただ単にその時そこに居場所があったからだろう。

反原発活動を始めた山本太郎氏のトークショーを開催したのが彼の人生のピークだった。

葬儀屋をやっている私に、放射能の影響で東京の火葬件数が増えていないかと真剣に電話をかけてきた時には、暗い気持ちになった。
引き剥がすべきか迷ったが、せっかく見つけた居場所を離れないだろうというのも長い付き合いなので分かっていた。
いずれ行き詰まってしまうだろうというのは分かっていたので、どうしたものかとぼんやり思っていた時に彼の訃報が飛び込んできた。

5年経って振り返ってみると、あのタイミングで亡くなったのはもしかするとよかったのかもしれないと思う時がある。自分を慰めるためにそう思う。

葬式に参列できなかったことも、ちゃんと彼の死を受け止めずに済んだのだと自分に思い込ませようとした。自分の中の彼の人生に決着をつけて次の段階へ、なんてきれいごとは言わずに、呪いのようにいつも自分の頭の隅っこに生き続ける、それでいいのかもしれない。

彼がアメリカに行く直前に一緒に行ったモスバーガーで当たった景品のグラスと、アメリカから帰ってきた時にもらった牛革のデイパックは大切に取ってある。ネット以外で彼の生きた証は、自分にとってこの二つしかない。

葬儀屋という職業柄、人が死ぬということはそこら辺の人よりもよく分かっているつもりだが、父も母も友人もこうやって早く亡くなると、やはりしんどい。

この世できっと彼にしか分かってもらえない言葉があった。彼はいないので、もう口に出すことのない言葉がどんどん自分の中に積もっている。




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