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愛犬が亡くなった




10年間飼っていた愛犬が2週間前に亡くなってしまった。
赤い首輪の似合う小柄な茶色いメスの柴犬だった。

まだ自分の気持ちを整理できていない。
水を飲む音の幻聴を聞く。
冷蔵庫を開けたとき、このチーズを買った頃は元気だったのにと思う。
反射的にゲージ(室内の囲い)をのぞいてしまって、そこに骨壺しかないことを認識してとても悲しい気持ちになる。

今回の経緯を書くことで少しでも自分の気持ちを救いたい、そして誰かの役に立ちたいと思った。
誰かの役に立ちたい記事はこの後、別に書く。
今回は自分のために書いた記事なので、読みたい方だけ読んでもらえたらと思う。

愛犬について

愛犬の名前を文中では「K」とする。

10年前神戸のブリーダーがサイトにアップしたばかりの画像を妻が見つけたことで、「K」はうちに来ることになった。
妻曰く「運命の出会い」
すぐに電話を入れて、翌日神戸まで会いにいった。

正直自分は犬を飼うつもりはなかった。
実家で以前赤柴を飼っていたのだが、散歩をしている最中に倒れて亡くなった苦い経験がある。自分が10代最後の日の出来事だった。
当時の自分は無力でどうすることもできなかった。

その日以来、ペットは絶対飼うまいと決めていた。
その顛末を知っている妹は、Kを飼うことを知ったとき、一言「死ぬで」とだけ言った。

それでも飼うことにした経緯は、私的な内容なので省く。
飼ったことは後悔していない。
後悔してないどころか結婚に次いで、人生でベストの選択だったと思う。

Kの受け入れが決まったとき、ペットOKなアパートに引っ越さなければならなかったのだが、大家さんに経緯を説明したら、特別に許してもらえた。
大家さんも以前柴犬を飼っていたらしく理解があったことがプラスに働いたようだ。

うちにやってきたKは完璧だった。
妻は、神の創造物の最高傑作だと言った。
多かれ少なかれ飼い主は自分のペットが最高だと思っているだろう。
だから200以上ある素晴らしいKの要素(←実際に書き出してみた)のうち、客観性の高いものを3つ紹介したい。

・吠えない

アパートで犬を飼う際に一番心配なのがこれだった。

Kは吠えない。

おなかがすいても、見ず知らずの人が自分のテリトリーに侵入しても、ほかの犬に吠えられても、吠えない。
Kが吠えるのを聞いたのは生涯で5回くらい。
間違って足を踏まれたときと、ゲージのすきまに自分の前足がはさまったときだけだ。

・かわいい

そんなもの個人の主観だと言われてしまうだろうから、かわいさを主観ではなくできるだけ論理的に説明してみる。

Kはほかの柴犬に比べてマズル(口の出っ張っている部分)が短い。
そして耳が大きい。
鼻先と耳の先を線でつなぐときれいな正三角形ができる。
そのバランスが美しい。
そして頭の形が球体に近い。
だからスズメやゴマアザラシにも似ている。

体重は7㎏とメスにしても小柄だが、抱き上げるのにちょうどいいサイズ感だ。
(豆柴のように日本犬保存会が認めない亜種ではなく、ちゃんと血統書付きである。)

Kを飼うようになってから、たとえば子犬だからという理由で他の犬をかわいいと思わなくなった。
つまり犬のルックスに目が肥えたということだ。

Kと散歩していると女子高生から何度も「かわいい~」と言われた。
私ではなくKに発せられた賞賛だ、たぶん。

そしてその女子高生が日常生活の中で一日に発する「かわいい~」の回数よりも、自分が一日にKに向かって発する「かわいい」の回数が多い、という事実は妻しか知らない。

同僚や友人には犬を飼っていることは隠していた。
堅物で売っている自分のイメージダウンになることと、K自慢が止まらなくなるのを恐れたからだ。

・社交的

そもそも猟犬である柴犬は通常、飼い主のみに忠誠を誓い、ほかの人間を敵視する。

でもKはとにかく人が好きだ。

これは何歳になっても、ずっとそうだった。
散歩の途中誰かとすれ違うとき、じーっと見あげて「かまって」オーラを出す。なでてもらうとうれしそうにしっぽをふる。
すれ違った後でも振り返って目で追いつつづける。
同じようにすれ違って振り返ってKと目が合った通勤途中のサラリーマンが、我慢できずに戻ってきて、うわーかわいー、とKをなでまわしたこともあった。

そしてかわいがってもらった人のことを覚えている。
同じアパートの住人には特に愛嬌をふりまく。賢い。

中村天風は「人生で一番大切なことは人に好かれること」だと言った。
そういう意味ではKは我々の師でもあった。

そうやって内向的な我々夫婦の人間関係を広げてくれた。

妻に抱かれて眠そうになっているKの、力の抜けた前足をそっと握って肉球に触れているときが、自分の生活の中で一番幸福なときだった。

我々夫婦を始め、みんなを幸せにした。
そんな犬だった。

亡くなるまで

5月だというのに暑い日が続いていた。
ある日Kが少しだけ食べたものを吐いた。
食べ物を吐くことは数ヶ月に一度くらいはある。
ただこの数日少し元気がなかったこともあって、近所のかかりつけの動物病院に連れて行った。
柴犬をなくしたことがある自分は、予防を含めて治療にはお金をケチらなくていい、と妻にはいつも言ってあった。

血液検査の結果、ところどころ数値が良くなかった。
とはいえ異常値とまではいえないものだった。
以前からで胆嚢に胆泥というものが溜まっていて薬を投与していたが、薬もなかなか食べてはくれず、妻が知恵を絞りいろいろアプローチしていた。

その時獣医が念のためエコー(超音波検査)をやりましょうか、と言った後、いや、でも4月にやったばかりだからね、やめときましょう
と言った。
ここが運命の分かれ道だったかもしれない。

動物病院の帰りは当然自分の足で歩いたし、元気を取り戻したようだったのでそのときはそれほど気にも留めなかった。
このところ暑かったし、Kもいい年齢になったしね、という話を妻とした。

翌日夕方の散歩の時は、妻の話だと元気がなかったらしい。
エサを食べなかった。
エサを食べないこともたまにはある。

その夜、異変に気づいたのは私だった。
Kは訴えるように私をじっと見ながら頭をふらふらと横に数回振った後(首を横に振るのではなく頭を左右に振り子のように振った)、ペタッと腹ばいに座り(普段はあまりこういう座り方をしない)ゆっくりした呼吸を始めた。

おかしい。

自分の中で不安がどんどん広がっていった
この時は脳梗塞を疑った。

夜10時頃だったので動物病院は閉まっている。
こんな時は迷わず近所の、24時間受け入れ可能なTRVAという動物用の救急センターに連れて行くつもりだった。

すぐ実行に移した。
到着して検査を受けると獣医はショック症状を起こしていて血圧が取れない状態と言った。

「亡くなる可能性があるということですか」という私の質問に獣医は、「はい」と答えた。

さらにその後の検査で胆嚢が破裂、もしくは破裂しかかっているということが判明した。
漏れ出した胆汁が全身に回っているらしい。

待合室で妻を励まし続けながら、まさかこんなに早くその日が来るのか、と思った。
ずっと日頃から気をつけていたのに。
祈り続けた。

その1時間後、バイタルが安定してきたと、獣医に告げられた。
治療スペースに横たわるKと対面した。

我々夫婦の姿を見て、頭を起こし、しっぽを少し持ち上げたKを見たとき、号泣した。

朝まで待って、一度かかりつけの獣医の元に連れて行って欲しいと言われた。
我々は不安なまま一夜を過ごすことになる。
朝TRVAに到着して、ドアを開けるとKは動物看護士に連れられて自分の足で歩いて出てきた。

「助かる」自分にそう言い聞かせた。

かかりつけの獣医からはここでは手術ができないので川崎市中原区にある日本動物救急医療センターに連れて行くよう指示を受けた。

車を飛ばして日本動物救急医療センターに到着した。
医師の手短な説明の後、緊急手術。
胆嚢を摘出した。

手術後面会すると、Kは手術後の低体温症対策として布で覆われて温風を送られていた。
呼びかけると反応した。
状況が良くなったと信じた。
緊急時に、自分は正しい行動ができたのだ、と思った。
先代の柴犬の死は無駄ではなかったのだと。

それから三日間入院することになった。
朝と夕方1日2回面会に訪れた。
鼻にチューブを通された状態で、前足でふらふらと不安定に立つKの姿を見るのはつらかった。

退院の日、医師からはあふれ出た胆汁が内臓を痛めつけており、腹膜炎を抑えられるかどうかが鍵だと言われた。
状況は楽観的ではなかったかもしれない。
でもTRVAで死んでしまうことを覚悟した自分にとって、もう一度このふわふわした温かい体を抱き締められたことは夢のようだった。

そこから我々夫婦の看病が始まった。

Kはまだ食事ができないので、鼻に常時通されたチューブを使う。
そこにミキサーでペースト状にしたドッグフードや、水や、乳鉢で20分間くらい粉状になるまで砕いた薬をシリンジ(注射器)で注入する。
特にドッグフードを入れるとき、シリンジがとても固くて指が痛い。

これを朝6時から24時まできっちり2時間おきにやる。
1日中、Kにかかりっきりになる。
葬儀屋さんになってから二十数年目で初めて夏休みというものを取った。

退院の翌日、ペースト状にしたドッグフードがうまく入らなくなった。
シリンジが硬くなってどうしても入らない。
Kが苦しそうにあごをあげる。
あきらめて病院に連絡を入れる。
連れてくるようにと言われ、到着したとたん吐いた。

胃に食べ物はチューブで入れられるものの、胃から先にうまく流れていないらしい。
無理やり入れられて本当に苦しかったろう。
でもKはいつものように、じっと見つめるだけで鳴いたりはしないのだ。
同じ苦しみを自分が味わって罰せられればいいと思った。

そこから2泊入院した。

幸い入院中に、食事は無理だが自分で水が飲めるようになった。
おしっこもするようになった。

入院中の見舞いの帰りのファミレスで、妻との会話が弾んだ。

退院の直前、敷地内で妻がリード(首ひも)を持って散歩させていると、Kがうんちをし始めた。
内臓がちゃんと機能しているということだ。
これまでの人生で誰かをこんなにほめたことがないというぐらいKをほめた。

2回目の退院をした。
当初ペースト状のドッグフードまみれになりながら悪戦苦闘していた我々夫婦も、次第にうまくなっていった。
乳鉢を使って薬を砕くのがうまいと言って妻は私をほめた。
こんな闘病生活の間も、Kは相変わらずかわいかった。

手術から9日目Kは少し元気を失っていた。
少し吐いた。
病院に連絡すると点滴を打つから一時的に連れて来て欲しいと言う。
検査の結果、数値は思わしくなかった。
腹膜炎は続いているらしい。

でも大丈夫だと思っていた。
今日本最高レベルの治療を施している。
犬の平均寿命は、近年どんどん延びて今は15歳だ。
Kはまだ10歳になったばかりなのだ。
ここで死ぬわけがない。
不安な気持ちを打ち消すように自分に言い聞かせた。
仕事を辞めてKの世話をする自分を想像し始めた。

腹部の手術跡を引っかかないようにするウエアと、エリザベスカラーをつけているKはいつもよりさらにかわいかった。

この段階で義母と義父(妻の両親)に連絡を入れた。
心配をかけまいと黙っていたが、来てもらった方がむしろKも喜んで元気になるだろうという判断だった。

義母はKを飼うまで犬が大嫌いだった。
それがKに出会って、夢中になった。
Kを1ヶ月妻の実家に預けたことがあったのだが、毎日手料理のエサを与え、1日5回散歩に連れ出していたらしい。
二人に孫はいない。
それ以降何かと理由をつけてはKに会いに来たがった。

翌日の午前中、Kが食べそうなものを抱え込んで義母が駆けつけた。

義母の手に乗せたヨーグルトを舐めた。
同じようにチーズのかけらも食べた。
手術後初めてのちゃんとした食事だ。
我々は歓声を上げた。

そしてそれがKの最後の食事になった。

義母が帰って2時間後、私が昼食を終えて歯を磨いていると、妻が固い声で私を呼んだ。

Kが小屋に頭を突っ込んで動かなくなってしまったらしい。
小屋から身体を出そうとすると重くて動かない。
全身の力が完全に抜けてしまっている。
顔をのぞき込むと全く呼吸をしていない。
急いで病院に向かう。

運転中妻とKに「大丈夫」「大丈夫」と叫ぶように何度も声をかけた。
「Kが死ぬわけがない」
でも大丈夫じゃないのは分かっていた。

父や母や親友や昔飼っていた柴犬が死んだときのことを思い出していた。
自分の頭はカッとなっているのに胸の当たりはすごく冷たく感じるのもあのときと同じだった。

病院に到着すると医師が心肺蘇生を始めた。

待合室で妻が泣きながら「死ぬわけないよね」と聞く。
もちろん、と笑顔で答えたつもりだったが自分は日常生活ですら上手く笑顔を作れないのだ。
おそらく失敗していたにちがいない。

その数分後、蘇生処置を止めていいか医師に確認を求められた。
だらんとなったKの身体は、重くてうまく抱けなかった。
体温はいつもより熱いくらいに感じた。

最後の処置を待っている間、病院の事務員さんが申し訳なさそうに請求書を持ってきた。
結局手術から亡くなるまで使った治療費の累計額は100万円近くになる。
ペット保険に入っていなかったが高いと思わない。
手術の終了後、10日間Kを抱きしめる時間を得るためだけだと分かっていたとしても迷わず100万円払ったと思う。

私は酒もタバコもギャンブルも美味しい食べ物も持ち家も必要としない。
ただ自分の大切な人には健康で長生きしてほしいと思っていて、でも人はたやすく突然亡くなってしまうことを知っているから、健康と長生きにいくらでも金を使っていいという価値観を持つ。
こういう時のために2年間無収入で生活できるだけのキャッシュを常に口座に置いてある。

最期お世話になった動物救急医療センターの設備もスタッフも最高で何の不満もない。
24時間常に医師が待機していて、CTスキャンまで完備していて動物用の輸血が常にストックされている。
つまり人間と同じ医療システムが用意されている。
自分が犬を飼っていない立場なら、狂っているとさえ思っただろう。

10日間、このシステムに助けられた。
夜中に何かあるかもしれないことを考えると、安心がお金で買えるならそれに越したことはない。
あとは、どれだけ出費に耐えられるかの問題だ
最後は、やれるだけの事をやったと思っている。

でももしあの時、ということをずっと考え続けてしまうのは同じ経験した方ならお分かりになると思う。
TRVAで手術ができないと判明した段階で、日本動物救急医療センターに搬送していたらとも考えた。
しかしあの段階ではバイタルが不安定だったのですぐに手術はできなかっただろうというのが医師の見立てだ。
ただ皆さんへのアドバイスとしてはもし同じ城西や川崎エリアにお住まいで、緊急事態であるならばTRVAではなく最初から日本動物救急医療センターに連れて行くことをお勧めする。

また私のカードはジャックスだったが、ジャックスのサイトから申し込んで、動物病院の支払いを理由に支払い枠を一時的に拡大することができた。枠を拡大する前に、病院で内金を払った際、大金が引き落とされた旨の確認連絡がコールセンターから携帯に入っていたので、話が早かった。
私は一括払いしかしたことがなく、銀行口座に現金があるなら現金払いでも同じだったかもしれない。ただ私はカードの方がポイントが1%つくから、と考えた。そう、本来私は合理主義でこんなケチくさい人間なのだ。

この10日間、治療を終えたKを病院から自宅へ連れ帰るときはいつも明るい気持ちだった。
これからどうなるのだろうという不安よりも、生きているKが家に帰ってきてくれるってことがとにかくうれしかった。
助手席の妻に抱かれたKの名前を呼んで肉球を握って「ニクキュー、ニクキュー」と馬鹿のように叫んで、ちゃんと運転してと妻に笑いながら叱られた。
手術の日、もうダメだと思っていたのに、また抱くことができた。
うれしくてしょうがなかったのだ。

亡くなってからの最後の帰り道は、妻も私もどちらも一言もしゃべらなかったと思う。

亡くなってから

家に着くと、段ボールの箱に収めた状態のままKをゲージの中に安置した。
Kに触れると、仕事でいつもふれている、体温が抜けていっている遺体の暖かさを思い出した。

葬儀屋という職業柄、ドライアイスは簡単に手に入る。
手術のため、腹部の毛が剃られていたので、綿花で丁寧に覆った。
ドライアイスを砕いて綿花で巻き、腹部を中心に冷やした。
いつも愛用していた皿に、妻がエサを盛り、水飲み器の水を新しいものに交換した。
チューブもウエアもエリザベスカラーも外されたKはいつものKだった。
「死に顔もかわいい」妻が笑いながら泣いた。

訃報を受けた義母は「ウソ」と言ったきり電話口で絶句したらしい。
当初火葬は板橋区にあるペット火葬板橋に依頼する予定だったが、横浜在住の義父と義母のことを考慮し、より近い平和会ペットメモリアルパークを予約した。
<火葬については別の記事に詳しく書く予定。>

翌々日の火葬までKの体をなでた。
頭の上をなでて喉元をなでて背中をなでて腿をなでてお腹をなでた。
それから肉球を手で包み込むように握った。
肉球の少し上の手首の部分の毛を撫でた。
この部分はベルベットの手触りでここをなでるのが自分は大好きだった。
Kは少し嫌がっていたけど。

少し毛がひんやりしていたが、いつも通りの感触だった。
なでている間、Kがパチっと目を開けたような錯覚を何度も起こした。

「この肉球もさわれなくなるね。」という妻の発言を聞いたとき、デスマスクのことを思い浮かべた。
もしかしたら、肉級を型取りするキットがあるかもしれない、とAmazonPrime対象商品を調べたら、あった。
<肉球の型取りについては後日別記事に書く予定>

火葬までの二日間、私と妻は悲嘆に暮れるというよりはむしろ高揚感に包まれていたと思う。

理由は3つ。

・Kが寝ているようにしか見えなかったこと。

・緊張からの解放。助かるか助からないか、そしてその責任の一端を自分達のケアが担っているという状況は極めて精神を衰弱させる。
そしてその結果が出てしまったことで、その状況から解放されたという気持ちが存在したことは認めなければいけない。
もちろん、ほっとしている自分が許せないという気持ちは強くある。

・Kの最後のために何かをしなければいけないという目的が存在したこと。
亡くなったということよりも、これが最後なのだからちゃんと見送らなければいけないということに意識を集中することができた。

霊前に飾るために近所のペットショップへ行ってKが好きそうなお菓子を買った。
このペットショップは子犬のしつけ教室を定期的に開催しておりKが小さい頃よく通った。
ゲージには将来の飼い主を待つ子犬たちがたくさんいたが、妻とは「やっぱりKがいちばんかわいいよねー」といつも言っていた。
ここにはもう二度と来ることはないだろう。

火葬の前日の夜、Kがどれだけ素晴らしかったかということを妻と話しながら書き留めていった。その数は200を超えた。
この行為は悲しみを紛らわせつつ、ペットの存在を自分の記憶に刻み込める。同じ境遇の方には是非おすすめしたい。

書き留めた200以上のKの素晴らしさの中から「亡くなる間際のこと」に関してだけ、少しピックアップしてみる。

十歳という二桁の年齢に乗せてくれた
老いて醜くなることを良しとしなかった
闘病生活で、衰弱する姿を見せなかった
手術に耐えて最後の10日間いっしょに過ごす時間を与えてくれた
突然のお別れじゃなく、抱く機会を与えてくれた
10日の間、良くなるんじゃないかという希望を抱かせてくれた
自分が仕事を休んでずっと一緒に居られるタイミングにしてくれた。
自分が仕事を休める限度を知っているかのようなタイミングで亡くなった
病院に我々が会いに行くとしっぽを振って元気そうに振る舞ってくれた
最後の日、自分と妻との散歩に行ってくれた。
そのときオシッコをしてくれた。
ヨーグルトとチーズを食べてくれた
部屋でいっしょに寝そべって過ごすという願いを叶えてくれた
義母が来るまで生きてくれた
ショックを与えないよう義母の前で死ななかった
我々に看病の負担をかけなかった

死んだ後もかわいい
死んだ後も我々に教えとはげましと幸福感を与え続ける

我々に至上の感謝の気持ちを抱かせてくれた
我々の人生を素晴らしいものにしてくれた

以上のいくつかは単なる偶然で、人間は意味のない出来事に意味を見出そうとする、といつもの自分がささやく。
今はその冷静な分析癖も、面倒くさい。

手前勝手な強引なこじつけで、自分を納得させて、今はやり過ごすしかない。
否応なしにつらい現実は一方的に降りかかってきて、それでも人それぞれの何らかの意味を与えて生きていかねばならない。
母が亡くなった時も父が亡くなった時も親友が亡くなった時も先代の柴犬が亡くなった時も、今までそうやってきた。
でも方法論や経験があっても、つらいという感情から解放されるわけではない。

火葬する日の深夜、目が覚めて、もう一度Kをなでた。

火葬の日の朝早く、Kの体をソフトタイプの犬小屋に納めた。
亡くなる時に頭を突っ込んだお気に入りの犬小屋だ。
そしてKを収めた状態で、その犬小屋をもう一度ダンボールに収めなおした。

kをレンタカーに乗せて毎朝の散歩コースを走った。
借りてきたのはポルテというあまり聞かない車だった。
少し特殊な構造で助手席を一番前にスライドすると車の居住スペースの中心部にKを収めた段ボールをぴったり設置する空間ができた。
つまり運転席の私と後部座席の妻は自由にKに触れることができる。
やっぱりkは「持っている」と思った。
神様に愛されている、そう自分に言いきかせた。

散歩の途中いつもかわいがってくれていたおじさんが働く運送屋にも寄ったがおじさんは不在だった。
でも病に倒れる直前、最後にかわいがってもらったのがこのおじさんだったから良しとしよう。

火葬場には1時間ほどで到着した。
その後、別ルートで到着した義父と義母が、Kを見て泣いた。
「父が泣くとはね」妻はどこかうれしそうだった。

火葬の最中、激しく雨が降り始めた。

妻がKを散歩に連れていくと急に雨が降り始め、家に帰ったとたんに止むことが多かった。
「雨女はKと君のどっち?」ずぶ濡れのKと妻にタオルを渡しながら冷やかしたことを思い出した。

一度自分とKだけでドッグランに行った帰り、急に雨が降ってきたのでKと大きな木の下で並んで座り、しばらく雨宿りをしたことがあった。
幸せだった。

収骨が終わるとデパートのレストランで食事をして義父母と別れた。

Kの骨箱は、もふもふした起毛タイプの茶色い骨覆をかぶせている。
Kっぽいという理由で、妻が選んだ。
それをお気に入りだったソフトタイプの犬小屋に収めた。
その前に生前Kが好きだったエサを供えた。


今はまだ、帰ってドアを開けると反射的にゲージを見てしまったり、暑い日に外にいると部屋の温度を気にしてしまったりする。

それでもいつしかKのいない生活に慣れていくのだろう。

Kのための旅に出る

火葬の翌々日、朝早くから飛行機で神戸に向かった。

目的は2つあった。
Kが生まれた町をもう一度歩いてみたい、ということと
Kを譲ってくれたブリーダーさんと話がしてみたいと思ったからだ。

この悲しみと苦しみを、時間をやり過ごすことによって耐えなければいけない。

家にこもって遺骨の前でじっとしていたらきっと気持ちが辛くなってしまうだろう。
もちろんこの悲しみが消え去ることはないが、初期に迎える最大値の悲しみは軽減しなければいけない。
自分は大切な人に何度か先立たれ慣れているので、自分の持つそのための方法論と経験を、妻のために使わなければならない。

Kのため、という名目で何でもいいから、行動を起こすのが一番だ、と判断した。
それは妻だけでなく自分のためでもある。

当然Kも連れて行こうという話になって、Amazon primeで届いた遺骨用のミニアルミケースに、骨壷から取り出した歯を一本入れて鞄にぶら下げた。

まず羽田から鳥取空港に着いて、神戸には鳥取経由で向かった。
鳥取経由だったのは早世した私の両親の新婚旅行先が鳥取だったので、いつか是非一度妻を連れて行きたいと思っていたからだ。

翌日鳥取から神戸に向かった。
Kが生まれたのは長田区の坂の多い町だ。
サイトでKを見つけた翌日訪問したときも、少し暑かったことを覚えている。

ブリーダーのご主人は不在だったが奥さんがいた。

10年前と比べると歳は取っていたものの記憶のままの姿だった。
東京から訪問した人は珍しいのだろう、Kが誕生日を迎えるたびにメールを送っていたこともあり、我々のこともよく覚えていてくださった。
もう高齢になったのでブリーダーはやめたと言う。
今飼っている13歳の犬で最後になるだろうと言った。
その犬もどこかKと似ていた。

「あの子は自分が育てた犬の中でも一番かわいかった」
リップサービスだろう。いや私はその通りだと思いますけど、あなた子犬の時にはわかんなかったでしょ?という意味で。
でもそれは彼女の優しさと気遣いだ。その気持ちがうれしかった。

その翌日神戸空港から羽田へと戻った。
羽田からは電車で帰る予定だったが、飛行機を降りるなり妻が気分が優れないと言い出した。
1時間ほど空港で休んだ後、大事をとってタクシーで自宅のアパートに向かうことにした。
アパートに到着するとメロンを持った大家さんと出会った。
Kが亡くなったことはすでに大家さんには伝えていた。
お悔やみの代わりにメロンを買ってきたとのこと。
Kはみんなに愛されていた。

ドアを開け、Kの歯を入れたアルミケースを骨箱に戻した後、ふとあることに気付いた。

この数日間で我々は、長田区から神戸空港発の飛行機で羽田空港へ、そのあと車で環状八号線を北上して今のアパートに到着、その時大家さんに会った。
これは10年前Kが我が家に初めてやってきた時と全く同じルートで同じイベントが発生している。
まさかと思い10年前神戸のブリーダーとやり取りしたGmailを確認してみた。

Kが我が家にやってきたのはちょうど10年前の今日だった。

偶然ではなくKの意志だと信じたい。

K、今まで本当にありがとう、なんて言葉でこの文章を終えられる心境にはまだほど遠い。
でもここまで書いたら少しだけ、ほんの少しだけ楽になれた。

私の私的な話を最後まで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。











6 件のコメント

  • 私が言うのも僭越ですが、名文だと思います。
    私もこの世で一番大切な存在を失い、後日その感慨をつづる機会がありましたが、様々な思いが邪魔をして、これほど素直に書くことができませんでした。
    本文は、透明感のある素敵な文章です。

  • まずはKちゃんのご冥福を心よりお祈りいたします。
    過去に交通事故で愛犬を失いました。
    何十年経ちましたが未だ自身を責め、日々懺悔しています。
    今はご自身と奥様の為に時間をたっぷり使って心を癒すのが大切です。
    また近い日に切れ味鋭いブログを楽しみに待っております。

    合唱

  • いつもブログ拝見させていただいております。
    考える葬儀屋さんのご心痛お察し申し上げます。
    私も、12年一緒に過ごした愛犬との別れを10日ほど前に経験したばかりで、文章を読みながら涙してしまいました。うちの子は癌にかかり、転移、下半身のマヒなどすごく苦しみ続け、安楽死という道を選んでしまいました。今は、これでよかったという感情と、後悔とが入り混じった気持ちが心の中でグルグル回っているような状態です。それで妻とケンカをしたりもありましたが、今我が家の犬も素晴らしかったところ話しています。少し妻の笑った顔も見れました。
    無機質に流れていく時間軸の中ですが、皆様のお心も少しでも穏やかにお過ごしできますように

    • おかやま 様、コメントありがとうございます。
      安楽死は、本当に苦渋の選択だったと思います。
      私の場合、10日間の闘病生活でしたが、この子は痛くて苦しんでいませんか、と何度も獣医に確認をとっていました。
      おかやま様の辛さが少しでも軽くなっていくことを祈っております。

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