マーティンスコセッシ監督の作品「沈黙」がAmazonプライムで無料になっていたので観た。
遠藤周作の小説「沈黙」に初めて触れたのは受験生時代に読んだZ会小論文講座内の読みもの。
今はどうだか知らないが当時のZ会の小論文講座は、左翼崩れの講師が大人の目の届かないところで受験生をアジっている世界で、あんまり好きになれなかった。
しかし沈黙の引用箇所は覚えている。
踏み絵によって棄教する(信仰を捨てる)自分をも神は許してくださるはず、という主人公の葛藤があった。
踏み絵を迫る役人達はこう言う。
「形式だけのことだから」
「多宗教」ゆえの日本人の無神経さだろう。
(参考記事:日本人が「無宗教」でなにが悪い)
とはいえ、多宗教の住人だからこそ、キリスト教に対しても敵意は持っていない。
ある意味寛容である。
本当は改宗や棄教など個々の日本人にとってはどうでもいいのだろう。
ただお上に言われたから、そうしているという全体主義。
おそらく一神教の信者の頑なさを滑稽だと思っているだろう。
なぜ神は沈黙したままなのか、って?
そんなの簡単さ。
神などいないからだ。
神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ。
自分にもそういう日本人的要素は多分にある。
キリスト教と一口にいっても教派によって様々だ。
キリスト教徒が読んではいけない本 という記事を書いたように
聖書原理主義に対しては、内心失礼だとは思いつつ同時に滑稽だと思っている。
しかしその一方で例えば聖書原理主義を取るアーミッシュには敬意を払っている。
ラムスプリンガとアーミッシュ銃撃事件とにおいて。
(詳しくはこの映画と書籍を参照)
対象は何であれ、何かを強く信じている人間に対して私は敬意と羨望を感じる。
強く信じているということは、思想と行動にブレが無いということだ。
葬儀屋さんという仕事柄、出会うちょっと無茶な教義の新宗教の信者にすら、敬意と羨望を感じる。
一方でその絶対的な正しさを求める姿勢にも息苦しさも覚える。
クリスチャンの一家に生まれたのに、自殺をしてしまった若い女性の葬儀の担当を務めたことがある。
原則キリスト教は自殺を認めていない。
それは命を大切にという人道的な思想からではなく、人がいつ死ぬのかを決めるのは神なのだから、人間ごときが自分自身で死ぬタイミングを決めることは許さないという、極めて冷徹な理由において。(これを冷徹と感じるのは私がクリスチャンではないからだろう)
おそらく幼い頃から有り余る愛情を注いできたであろうに、その娘の亡骸に対して、娘の夫が堪えかねて諫(いさ)めなければならないほどの罵声を浴びせる母親の心情は、私などには決して理解できないものだと感じた。
もうちょっと信仰に遊びやユーモアを持つというか、ゆらぎを時には認めてもいいのではないか。
カソリックだったら葬儀を拒絶しただろうが、その家族はプロテスタントだったため、教会で葬儀はとり行われた。
それから何人かの牧師と自殺について話す機会があったが、彼らも悩んでいる。
弱さを認めないのは、果たして愛なのか?
ましてや自殺に至る原因は本人の弱さだけではない。
心の病気を発症したのも、不遇な境遇も予定説で片付けられてしまうのか?
神は彼女も許さないのだろうか?
昨今のカトリック教会が自殺者の葬儀を拒絶はしていません。
考え方は伝統的にそうかも知れませんが、人道的・心理的・科学的?な観点からもカトリック教会はその人のために祈り、ミサを捧げ、その人のあの世での心の潔め、回心を神に願っています。
人様のデマを書くならご自身ももう少し勉強なさってからこのコラムを書かれてはいかがですか?
また、「カトリック」を「カソリック」を記載されていますが日本では「カトリック」が正しいのです。
確かに英語読みでは「カソリック」に近い発音になりますが、正しい呼称で書いていただきたいものです。
考える神父さん 様
コメントありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます。
失礼いたしました。
後学のためご教授頂きたいのですが
かつてはカトリックでは自殺者の葬儀は拒否していたが、現在は受け入れているという理解でよろしいでしょうか?
それは世界的にそうなのでしょうか、それとも国内に限った話でしょうか。
また拒絶から受け入れの変化の時期において、カトリックの教義自体は変わっておらずぶれていないという理解でよろしいでしょうか?
そうだとすると現在の受け入れが正しくて、過去の教会の拒絶という判断は間違っていたということなのでしょうか?