弔辞を頼まれた方へのアドバイス

葬儀の挨拶 弔辞編です。

弔辞とは

弔辞(ちょうじ)とは、葬儀や追悼式などで亡くなった方を偲び、その人生や業績、思い出などを述べるスピーチのことです。

弔辞は社葬や大規模葬においては現在でも珍しくはありません。
しかし、葬儀が小規模化・家族葬化している昨今、
弔辞を行う機会はどんどん減ってきています。
社葬ではない、いわゆる一般の方の個人葬の場合、弔辞が行われる比率は1割にも満たないです。

しかし大多数を占める小規模のお葬式のときにも、いや小規模だからこそ
弔辞を行うべき
、と私は申し上げたいです。

弔辞の役割

社葬の弔辞というのは、社会的な地位のある故人に対して
遺族や社内の役員が功績や人格を称えるのは抵抗があるので、外部の関係者にその役割を委ねているという役割があります。

一方、個人葬は
本当に故人のことを想う人が集って、その人らしい葬儀を行うというパーソナライズ化の傾向があります。
つまり参列者間で故人に対する想いが共有しやすくなっている状態と言えます。
そんな状況で、弔辞を読むということは、さらに故人への感謝や愛情を明確にさせる効果があります。
だから小規模葬にこそ、もっと弔辞があってもいいと思います。

社葬にしろ個人葬にしろ弔辞は、お葬式を、参列者の心に刻まれる暖かいものにする絶大な効果があるのです。

だから、例えば個人葬の場合、故人のお孫さんなど家族の方が弔辞を読んでもいいと思います。
弔辞の原稿を書くことで故人への気持ちを整理できますし、
後年その原稿を読み返すことで故人への想いを再確認するという効果があります。

弔辞を頼まれたら

もし、あなたが弔辞を頼まれたら。
多分、荷が重いと思われるでしょう。
これまでの私の説明をお読みいただいたなら、責任重大だと感じるはずです。
でも断らずに引き受けてください。
弔辞を頼まれるということは、あなたが最も故人と親しかったということなのです。
長い人生で、ある人物のもっと親しい人であったと言ってもらえる機会などそうそうないはずです。
人が人であることの証明が、人のつながりの中で生きていくことであるなら、これに優る光栄なことがあるでしょうか。
もし弔辞を断るなら、その人と親しかったという事実はありません、と関係を否定するくらいの覚悟をもって断るべきです。
弔辞は是非引き受けてください。

おそらく弔辞を頼まれて不安に思うのは、
・何をしゃべればいいのか分からない
・どうしゃべればいいのか分からない
の二点が原因でしょう。

でもだいじょうぶです。
次の章の解説を参考にしてください。

ところで
「弔辞集―有力経済人への鎮魂譜 」という本を持っています。
政財界著名人の葬儀の際の弔辞集です。

申し訳ないですがどの弔辞も退屈です。
なぜなら 弔辞の内容のほとんどが業績の羅列になっているからです。
故人の立場上仕方ないのかもしれませんが・・・

確かに弔辞は難しい。

私は「挨拶の天才」丸谷才一氏の弔辞を
生で聞く機会に恵まれたことがあります。

しかしこちらの期待値が上がりすぎたせいも有ると思うのですが
失礼ながら、それほどすばらしい弔辞とは思えなかったのです。
氏は本番前に練習を念入りに行なっていたそうです。そのときはあまり時間が取れなかったのでしょう。

逆に言えば丸谷才一氏にとってすら弔辞は難しいものなんですから、
素人は美辞麗句や技術的な小細工は気にする必要はありません。

弔辞のポイント

さて私の考える弔辞のポイントです。

弔辞の内容の善し悪しは
故人のエピソードの選択にかかっています。

その場にいなくても、故人の知る人にとっては、
その情景が目に浮かぶ故人らしいエピソードで最高のもの一つ、
選ぶことができればその弔辞はほとんど成功していると言えるでしょう。

後は本番で、原稿を見つつも、
その情景を思い浮かべながらしゃべれば良いのです。

「しゃべれば良いのです」って言われても、うまく喋れるか不安だ、
って言われそうですね。
そんな人に有効なものが、本番では目の前にあります。
そう「遺影」ですね。
祭壇の遺影には少し距離がありますから、
参列者とマイクの存在は忘れて、
少し離れてそこにいる故人に向かって話しかけるようにしてはどうでしょうか。
ゆっくり大きな声でしゃべれるはずです。

弔辞の思い出

最後に私の弔辞にまつわる体験談を一つ。

元軍人のおじいちゃんが、式中に乱入してきて弔辞を読む
という経験を私は3度もしたことがあります。

一般の参列者の焼香が始まって、参列者を順番に焼香に案内していると、
いきなり参列者の中の1人のおじいちゃんが、
懐(ふところ)から便せんを取り出し、
お寺さんがお経を読んでる最中にもかかわらず、
いきなり弔辞を読み始めたのです。

弔辞を行う場合は
式前に葬儀担当者と弔辞者が打合せをして、
参列者みんなに聞いてもらえるように焼香の前の段階で
マイクを使って行う
のが普通なのですけど。
お葬式の担当者にとってみれば
「えーっ、聞いてないよ」状態。
よくよく弔辞の内容を聞いてみれば
生前どちらかが先に亡くなったら、
生き残った方が亡くなった方の葬式で弔辞を読む
と約束したとのこと。
お年を召されて周囲の状況判断が難しくなっていらっしゃったのでしょう。
約束を果たさなければという、その義務感だけで突っ走られたようです。

事情が分かれば納得なのですが、最初にやられたときはびっくりしました。
ちなみに3回とも乱入したのは全て別の人でしたから、何かそんな文化があるのかもしれません。
戦火をいっしょにくぐり抜けた友情には
私の想像もつかない固い絆があるのでしょう。

予期しないこととはいえ、一度経験してしまうと意外と対応可能なものです。
2回目、3回目の乱入ときは
不安そうに後ろを振り返るお寺さんにアイコンタクトでうなずきながら、
セレモニースタッフに参列者の焼香を一時止めるように指示を出し、
ワイヤレスマイクをおじいちゃんの口元に近づけて、
弔辞を読み終わるまで声を拾いました。

お葬式は大混乱ですが、故人はうれしいでしょうね。

しかしここしばらくは、そんなハプニングには出くわしていません。
おそらく戦中派の多数が鬼籍に入られたからでしょう。
少し寂しい気がします。