実践・快老生活 知的で幸福な生活へのレポート
渡部氏は今年4月に86才でお亡くなりになりました。
自分の一生を振り返ると、日本に生まれたことから始まり、いろいろな偶然の重なりで、きわめて幸運な男であった。私はもう、この人生で十分に結構である。
このように御自分の人生には充分満足されていたようです。
亡くなる半年前に出たこの著作にそれを可能にしたヒントが書かれています。
変わらないものを知るには、古典を学ぶことである。読み継がれてきて、今も残っている古典には、昔から変わらないものが書かれている。ある程度の歳になったら、詩歌や人間論など不変の「本物」を学んだほうがいいというのは、そういうことからもいえる
老い先短いから今さら何を勉強しても無駄、ということではなく
人間を勉強の対象にするようになるということですね。
定年後の気分を左右しているのは、収入の有無であろう。ささやかであっても、定年後に収入がある人は随分と違う。
寛容の基礎となるものこそ、私有財産なのである
ある長生きした人が、いちばん身体にいいのは仕事で成功することだと書いていた。
年老いても収入は必要ということです。
これは生活不安を取り除く収入さえあればいいというわけではなくて、自分の社会貢献の対価としての収入があることが理想なのでしょう。
亡くなるその時まで働く≒社会に必要されている実感を持つ、ということですね。
人生における腹の底からの幸せ感は、子供を持ち、孫を持つようになって初めて体験することができた。しかも、若いときから幸福ではあったけれども、ジジババになってからの幸福感は、まことに格別なものである。
次に家族を持つこと、だそうです。
私には子供が居ません。
別にいらないわけではないのです。
両親が存命ならなんとしても孫を抱かさなければと思ったはずですが、両親は早くに亡くなりましたので、どうしてもと言う気持ちが弱いのです。
(今でも孫を連れた老夫婦を見るとため息をつきたくなるときがあります)
でも考えを改めて子供を作った方がよいのでしょうか。
そして最後は「苦しまずに死ぬ方法」ついて、です。
「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉がある。今、この歳になると、なるほど、その意味がよくわかる。矩をこえようと思っても、もうこえられないのである。
佐藤一斎は、八十歳を超えてから執筆した『言志耋録』の中で、こんなことを書いている。 <凡そ生気ある者は死を畏る。生気全く尽くれば、この念もまた尽く。故に極老の人は一死睡るが如し>
私の個人的な感覚では、八十歳を過ぎると燃えさかっていた火の勢いが減っていく気がする。
九十五歳を超えると宗教すらいらなくなる
凡人が苦しまずに死にたいのであれば、最良の答えは「長生きをすること」
80才を越えてくると生存欲が減退し始め
どうやら90才を越えると死の恐怖が無くなるらしいのです。
確かにご自身の葬儀の事前相談で飄々としながら「いつ死んでもいいだけどね」とおっしゃっているのはこの辺りの年齢の方が多いような気がします。
だから40過ぎてもう人生折り返しを過ぎてしまった、とかなんとか言って
自分が死ぬときのことを考えてブルーになっている人は、心配いりません。
とにかく長生きすることを目指せばいいのです。
そのためにはいつまでも生きることに執着を・・・って、あれ?
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