今回ご紹介するのはこちらの本
「聖の社会学」勝桂子
以前「勝桂子「いいお坊さん ひどいお坊さん」は良書である」という記事で
「いいお坊さん ひどいお坊さん」
という本を紹介しましたが、その続編的位置づけです。
キーワードは「瞬間出家」と「聖」。
僧侶と、終活に迷う消費者をつなぐための提言を行う彼女の役割は貴重かと思います。
葬儀屋さんも一見彼女と同じ立場なのですが、
内心はともかく建前上は 僧侶>葬儀屋 という関係なので
内心はともかく建前上は 僧侶>葬儀屋 という関係なので
なかなか対等な提言はしづらい・・・
といいつつ私はこのブログでやってしまっていますが。
そして彼女は自分が矢面に立ちつつものを言う(つまり言った言葉に責任を持つ)ところに凄みがあります。
伝統仏教はカルト化している、なんてなかなか言えない言葉です。
さらに私には仏教界に対する愛はあんまりないのですが(笑)、彼女にはあります。
だから仏教界に対する提言者としては最適なのです。
葬儀に対する考え方は共感できるところが多いです、というかほぼ同意見。
葬送儀礼において、喪失されてはならない本質とはなんだろう?誰のもとにも訪れる死の衝撃を、共通の儀礼によってやわらげ、遺された者たちをゆるやかに日常へと回帰させてゆくこと。
葬儀そのものが本来、われわれを瞬間出家させてくれるものだったのだ
一般のかたはけして、葬儀や供養にお金を払いたくないわけではない。なんの功徳があるのか明確に感じられない檀家寺に、金銭を払いたくないだけなのである。
というように。
本当は葬儀業界周辺の人は分かっているんですよね。
仏教界の一部の人が見失っているだけで。
さらに
つまりは、われわれ自身が、聖であるかどうかを見分け、聖的でない宗教者には布施をしない決意をすべきなのだ。賢い市民はすでに歩み出している。それが、墓じまいブームの本質である。
イエ制度の消滅とともに墓じまいが地方へも広がってゆけば、自然と檀家であること(慣習)と信者であることとのズレもおさまってゆくだろう。
というように
現在のカオス状態の仏教界周辺の事象を解き明かして
問題解決の提言をしています。
墓じまいブーム、檀家離れと聞いて、なんとかしてくれと住職が嘆くのはおかしい。墓がしまわれるということは、頼れる家族が近くにはいないということなのだ。しまわれる墓の数だけ、そこには住職に託される看取り(生老病死)がある。
愛のある叱咤激励です。
聞いてますか?仏教界。
私は競争原理さえ導入すれば、あとは消費者の望むようになるというスタンスです。
僧侶が半分くらい失業したあたりで供給過多が解消されるはずなので、本当の再生が始まると思っています。
ほら、愛がないでしょ(笑)
さて読み終えて思うのは「攻めてるなぁ」ということ。
新書って通常200ページちょっとなのですが
この本は300ページ越えています。
実際に本を書いてみると分かりますが300ページの本て、
売値が200ページの本と同じであるなら
売値が200ページの本と同じであるなら
印税は変わらない一方で、校正の手間やコストはかかるので商売としてはあまりメリットが無いはずなのです。
それでもこのボリュームにしたというのは
200ページ分の話を膨らませたのではなく
たくさん言いたいことを絞って絞ってそれでも300ページだったのでしょう。
本当はダメな僧侶こそこの本を読むべきなのでしょうが、
多分読んでも生き方を変えないと思いますので、
同意するにしろ否定するにしろ志のある僧侶に一読をおすすめします。
供給過多なんですよねぇ・・・玩具ですら感じています。
しっかしいい言葉だらけですね~。納骨堂ビジネスと樹木葬ビジネスもそのうち
淘汰されると思っています。結局境内墓地といっしょじゃね?って散骨はよくわかりません。無縁墓として粗末にするよりは自然にゆだねるって考え方でしょうか?
かかし様
ぜひ一読をおすすめします。