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認知症になったら安楽死できないのか?




「認知症になったら自分の意志で安楽死できないのか?」

という疑問がこの本を手に取った動機だった。

「不治の病に冒されたら安楽死をしてはいけないのか?」という問いに関しては、本人と家族の同意が得られればOKとすべきではないか、と言うのが私の立場だ。
後述するが日本ではまだ(積極的)安楽死は認められていない。

個人的な話をすると、私の父は亡くなる前に2度心臓が停止した。
病院から蘇生の確認をされたとき、1度目は当然依頼したが、2度目は悩んだ末、断った。充分病と闘ったのだから、もう楽にさせてやりたいと思った。(参考記事:父の葬儀の思い出とその周辺の記憶 | 考える葬儀屋さんのブログ

 

<https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2017/html/gaiyou/s1_2_3.html>

ここで事実関係を押さえておきたい。
予測に幅があるが、現在600万人を超える認知症推定者は、2040年に800万人を超える。そしてひどい言い方だが、認知症患者は体は元気で徘徊するため、寝たきり老人より管理コストがかかる場合もある。

現在日本は国家予算の3分の1にあたる33兆円を社会保障費に使っており、そのうち子育てに使われているのはたったの2兆円である。
社会保障費の多くが高齢者の年金や医療費に使われている。

この記事(日本の平均寿命は幻想である)でも触れたが、若者から搾取した税金を老人の社会保障に使っている。(財務省サイトより
重税による若者の貧困化が少子化を招いている一因だとすると、ひたすら長生きしたい老人を延命させるために新たな命が誕生する機会を奪っていることになる。

20年後の日本は「毎日のように看病疲れによる家族殺しが行われ、独居老人の腐乱死体が発見され、認知症患者が徘徊する社会」だと思っている。

これが日本の民主主義の帰結であるというなら受入れるしかない。

ただ認知症を発症して自分が何者かすら分からない状況であっても、治療に税金を使うのはどうなのだろう。
認知症になったら自動的に安楽死というのは無理があるとしても、生前に「認知症になったら安楽死させてくれ」という意思表示があった場合、効力を持たすことはできないのだろうか?

死生学や生命倫理はひとまず横に置いといて、国家財政の問題として捉えたのが、「痴呆症の場合の安楽死」を考え出したそもそもの始まりだった。
そして以前書いた人物との出会いで(参考記事:自殺志願者との対話 )深く考えだすようになった。

さて冒頭で紹介した書籍の著者、宮下洋一氏は安楽死の実態を探ろうと欧米諸国を巡る。そして最後日本に帰ってくる。
実際に安楽死の現場に立会い、悩み続ける。これまで普通にインタビューしていた人が目の前で致死薬を飲んで死ぬ。(認知症を理由に安楽死を行う患者が致死薬を飲む瞬間の写真も掲載されている)

この本を読んでいて、途中から宮下氏は何語で話しているのだろうというのが気になったのだが、彼は6カ国語が話せるとのこと。
彼の言語能力が、複数の国をまたいでの安楽死志願者との深いコミュニケーションを可能にしたのは間違いない。

いわゆる安楽死が認められているのはスイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、アメリカの一部の州と、カナダ。
しかし国により、言葉の解釈、可能な処置、手続きなどが異なるのが実態だ。
例えば「尊厳死」が下記のどれを指すかも異なる。

一口に安楽死と言っても実態は4つに分類される。

1.積極的安楽死は、「医師が薬物を投与し、患者を死に至らせる行為」
2.自殺幇助は、「医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為」
3.消極的安楽死は、「延命治療(措置)の手控え、または中止の行為」
4.セデーションは、「終末期の患者に投与した緩和ケア用の薬物が、結果的に生命を短縮する行為」

日本の場合は3が「尊厳死」と解釈されることが多いが、スイスやオランダでは1や2が尊厳死を指すことが多い。
4のセデーションは医療現場で普通に行われており、安楽死と呼ぶには疑問符がつく。

安楽死は、以下の4つの条件を満たしているか、ポイントとなる。

(1)耐えられない痛みがある。 (2)回復の見込みがない。 (3)明確な意思表示ができる。 (4)治療の代替手段が無い

スイスが安楽死を認めるのは、「治療の決定権を患者に委ねる」という考え方に依る。

私が気になっていた認知症を理由とした安楽死はオランダのケースで取り上げられる。
ちなみにオランダは最も安楽死に関して寛容という印象を受けた。手続き上医師は警察に安楽死を報告するだけよく、警察のチェックも無い。ホームドクターは一度は安楽死を行った経験があると言われる。

認知症場合、上記の(1)耐えられない痛みに該当するかどうかであるが、オランダの事例では「精神的な」絶えられない痛みだと解釈されている。
安楽死を希望した本人は自分の親も認知症に苦しんでいた姿を見ている。しかしまわりの家族全員が安楽死に納得したわけではない。孫は死ぬ瞬間を見届けられなくて部屋を出て行く。
いろんな葛藤がありながら周りが受入れたのは「反対だが、本人の決断を尊重する」という判断だ。
故人の奥さんが言う。「人生は、美しいものでなくてはなりません」

私が気になったのは認知症を発症した後で、正しい判断ができるのか、ということだ。これは(3)に関わる。
オランダの事例では家族とのコミュニケーションは一応成立していたようだ。
ここを深く語るには、本書の描写と、私の認知症の知識は十分でない。

ただ私が想定しているのは「認知症を発症した場合安楽死させてくれ、と事前に意思表示をしていたら安楽死は認められるか」だ。
上記のオランダのケースでさえ、賛否両論あったらしい。安楽死が最も進んでいるオランダ以外では成立しなかっただろう。

最終章では日本での取材が行われる。いろいろ書いてきてこんな結論で締めるのは申し訳ないのだが
この国ではいかなる形であれ安楽死が認められることは永久にないだろう。

法律で決めた年金の物価スライドですら行えないのに。
問題をどんどん先送りして、一度国が滅ぶのを待つしかないのかなとも思う。

著者は「この国は、死を巡る対話を欠いてきた。」と言う。

その通りだ。











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