葬儀屋さんが佐野研二郎氏葬式パフォーマンスを評価できない理由

多摩美術大学の学園祭で、五輪エンブレム騒動の佐野研二郎氏の葬式パフォーマンスが行われたことが話題になっています。ちなみに佐野研二郎氏は多摩美術大学の教授です。

佐野研二郎氏葬式
「佐野研二郎氏の葬儀」多摩美術大学のパフォーマンスは無許可だった

私の感想は
批判している方も批判されている方も葬式をネガティブな「終わり」として考えているのだな
というものです。
それが良い悪いではなく、ただそう考えているのだな、と思いました。
世間の葬式に対するとらえ方は、常に先の無い「終わり」なんだなと。

 

私は日々本当の葬儀を執り行う側にいる人間です。
そのため葬儀を「終わり」ではなく「再生のスタート」と位置づけています。
葬儀を通して残された人が、愛する人の死をどう受け止めてこれから生きていくか、ということにどうしても関心が向いてしまいます。

 

だから第一報として画像と目撃者の談話が流れた際、
もし葬式を行った側に「佐野研二郎氏はこれで過去を清算してまた新たなスタートをきってください」
というメッセージが含まれていたなら、批判はすまいと思ったのです。
確かに世間の人々の眉をひそめさせるものではありますが
岡本太郎を曲解してしまっているかもしれませんが)
芸術であるならそれが不愉快な表現のときもあるんじゃないかと。
たとえば我が子を食らうサトゥルヌスとか会田誠の作品の一部なんてなんてほぼ間違いなく世間を不愉快にさせるわけですし、わざわざ見せる必要のないものでしょう。
もちろん良識のある人からは批判にさらされるでしょうから、批判も織り込んで覚悟の上で表現を貫くのであれば芸術家の性(さが)として仕方が無い、と思ったのです。
対象にされている佐野研二郎氏も一般人ではなく芸術の世界の人間ですから、不愉快とはいえ身内としてそのあたりも汲みとれるのではないか、 と考えました。

 

しかし今日になってその葬儀の際、読まれた弔辞が公開されました。

 

佐野研二郎氏擁護はその通りだったのですが
やっぱりやった本人達も葬儀を「終わり」だと思ってたんだなと。

 

批判している方も批判されている方も実は葬儀に対する考え方の文脈において同じでした。
よって私はどちら側にも与することができません。