今回は明治時代から昭和までの葬儀の服装の歴史を語ります。
最近こちらの本を読みました。
衣と風俗の100年
中村ひろ子さん(日本民俗学者)の「喪服の近代――死にかかゎる者の衣服をめぐって」という文章が参考になりました。
この本の記述を基に、明治~大正~昭和の時代の喪服の変化を見ていきましょう。
葬儀の服装は、以下の3つの軸で変化が生じています。
- 遺族の服装から参列者の服装へ
- 和装から洋装へ
- 白から黒へ
この視点を意識しつつ、以下の文章をお読みください。
明治時代
現在では喪服と言えば、お葬式の時に女性が着る黒い和服を指すことが多いです。
元々は喪中に遺族が着る服
しかし喪服は元々喪に服している期間、遺族だけが着る服でした。
故人が亡くなって葬儀を終えてからしばらくの間、遺族は喪に服します。
七日毎の法事を行ったり、お祝い事に参加するのを控えたりと、しばらくは故人の死を悼んで、その地域の習慣に則って慎ましく生活するわけです。
そしてその喪に服している間、遺族が着る服が本来の「喪服」でした。
くわしくは江戸時代に発布された喪に服する期間を定めた法律、服忌令(ぶっきりょう) – Wikipediaを参考にしてください。
明治時代までは男女とも白い和服が一般的だったようです。
↑NHK朝ドラで登場した明治時代の葬儀のシーンにリンクを貼らせていただきました。
ちなみに、NHKのドラマ撮影に立ち会ったことがあります。俳優の演技そっちのけで(笑)、方言とか史実考証はかなりていねいにやっています。
遺族が葬式の時に着る服へ
喪に服している間、着ている服が、明治時代に入るころになると、遺族が葬式の際に着る服になりました。
この段階で喪服(喪に服する服)は、礼服(儀礼時に着る服)となったのです。
当時喪服は、人の死という特別な出来事の際に着る服、つまり「ハレ(非日常)の日に着る晴着」という位置づけでした。
通夜は「まだ死が確定されていない、再生の願いを込めた時間であった」ため、遺族でも喪服を着る人はいませんでした。
ちなみに明治42年に伊藤博文の国葬が行われていますが、男性は燕尾服着用を義務付けられていました。
明治5年に発布された太政官布告の中で礼服は燕尾服を定められていたからです。
都市部の貴族階級のフォーマルとして黒の洋装は、明治に成立していたと言えるでしょう。しかし正装だと思って上京した袴姿の地方議員が、参列を断られたらしいので、日本全体としてはまだ普及していなかったということでしょう。
以上が明治時代に起きたとされる変化です。
大正時代
明治時代の頃は遺族でもない人が喪服を着るのは忌むべき行為だったため、一般の参列者は普段着で葬儀に参列していました。
参列者も喪服を着始める
しかししばらくして喪服にケガレ感が無くなっていくにつれ、参列者も喪服を着て参列するようになっていきます。
- 遺族の服装から参列者の服装へ
の変化が明らかに起こったのが大正時代です。
和→洋へ 白→黒へ
次に
- 和装から洋装へ
- 白から黒へ
の変化が起こり始めます。
この変化には時系列的なものと、地域的なもの、両方があります。
ある日を境に起きるのでは無く、徐々にグラデーションをもって変化していき、過渡期にはいろんな服装の人が混在するのが、個人的に興味深いです。
被り物が遺族と参列者を分ける
地方では
白い和装→黒い和装に白い被り物→黒い洋装に白い被り物→黒い和装・黒い洋装
という変化が起きます。
- 和装から洋装へ
- 白から黒へ
の変化の中で、被(かぶ)り物がクッションの役割を果たしていました。
「被り物」と言われても現在ではピンときませんが
「白い三角布」や「シロという晒(さら)し」を身に付けたり、持ったりしていたようです。
時代劇や昔の映画で、花嫁が白無垢の着物を着て白い布を被っていますが、葬式の時にはこの布の向きを変えて被る習慣の地域もあったとのこと。
今からは想像できませんが、白無垢で葬儀に参列していた時代があったのです。
そしてこの被り物が、遺族と参列者を分ける役割を果たしていました。
一方都市部では
白い和装→黒い和装に白い被り物→黒い洋装に白い被り物→黒い和装・黒い洋装
と、被り物を飛ばして変化したようです。
都市部では国葬などで、黒の洋装を見かける機会が多かったからではないか、というのが私の推測です。
昭和時代
この本には、昭和6年に新潟で行われた葬儀の集合写真が掲載されています。(衣と風俗の100年 P263)
映っている人々の服装がみんなバラバラで、上記のバリエーションが全て混在しているのがおもしろいです。
つまり
- 白い和装
- 黒い和装に白い被り物
- 黒い洋装に白い被り物
- 黒い和装
- 黒い洋装
の人々が1枚の写真に写り込んでいるのです。
男性の一部は、全身真っ白の裃(かみしも)を着ています。
先程戦前は、白無垢で葬儀に参列していたと申し上げましたが、戦時中の靖国神社には、地方から上京した白無垢姿の地方の未亡人が参拝することがあったらしいです。
周囲は引いていたらしいので、当時の東京において、葬儀に白い和服姿は、既に廃れていたことがわかります。
さきほど明治時代の伊藤博文の国葬は燕尾服だったと申し上げたように、全体的に和装→洋装への変化は男性の方が早かったようです。
戦後まもなく国内洋服メーカーのカインドウェアが、ネクタイを変えるだけで、葬式にも結婚式にも使える礼服を提案し、これが受け入れられたのです。
日本全体が貧しく、汚れやすい白や、フォーマルウェアを何種類も所有できないという背景があったからだと思われます。
余談ですが、この本の中には先代の小笠原流礼法宗家が、姉の弔問に駆けつけた際、全身白のスーツ(ネクタイや靴も白!)で現れたエピソードを紹介しています。
もちろん一般にはそんな習慣は存在しなかったのですが、歌舞伎関係では葬儀の際、白の和服を着用することもあり、伝統ある家柄では戦後も白を着る習慣は残っていたようです。
一方女性は、昭和40年頃までは、だいたい和装でした。
確かに昭和50年代に、地方で私の祖母の葬儀が行われたときは、男性は洋装の礼服で、女性はまだほとんど和服でした。
1970年に出版されて308万部の大ベストセラーになった塩月 弥栄子の「冠婚葬祭入門」には、遺族女性が和装なら「黒羽二重五つ紋に黒の帯」、洋装なら「黒いアフタヌーンドレス」と書かれています。
欧米の作法である、葬儀で女性はドレスを着るという習慣は一度も定着することはありませんでした。パーティー文化のない日本では無理のないことです。
結局和服→アンサンブルという流れが主流だったのです。
私が葬儀業界に入った2000年(平成12年)頃の東京では、すでに女性の9割はアンサンブル、他はパンツスーツと和服が分けあっている状況でした。
現在(令和)では和服の方は全体の1%くらいです。
以上が明治から昭和までの葬儀の服装の歴史でした。
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