今回村上春樹が翻訳したフィリップ・マーロウシリーズをすべて読んだのですが、作中で不自然なくらい「葬儀屋ネタ」が出てくることに気づいたので、まとめてみました。
ミステリー小説や推理小説では、基本的に人が死ぬので葬儀の描写は珍しくありません。しかしそういう使われ方ではなくて、物語の流れとは関係なく、葬儀屋ネタの描写やセリフがでてくるのです。
目次
フィリップ・マーロウシリーズとは
小説のキャラクターとして有名なフィリップ・マーロウですが、ご存じない方のために一応解説です。
フィリップ・マーロウ(Philip Marlowe)は、レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler)によって書かれた小説に登場する私立探偵であり、ハードボイルド探偵小説の代表的なキャラクターです。
ハードボイルドとは、直訳すると「固茹で卵」ですが、タフで冷酷な探偵を主人公に据え、暴力や犯罪、都市の闇をリアルに描くミステリー小説の一ジャンルです。
マーロウは、1930年代から1950年代のロサンゼルスを舞台に、腐敗や犯罪がはびこる世界で活動します。そのタフでシニカルな性格と独特のモラル観が、彼の特徴です。
シリーズの背景と主要作品
フィリップ・マーロウシリーズの第一作は、1939年に発表された『大いなる眠り(The Big Sleep)』。この作品で、マーロウのキャラクターとチャンドラーの洗練された文章スタイルが確立されました。
長編作は以下のとおりです。
- 『大いなる眠り』(The Big Sleep) – 1939年
- 『さよなら、愛しい人』(Farewell, My Lovely) – 1940年
- 『高い窓』(The High Window) – 1942年
- 『湖中の女』(The Lady in the Lake) – 1943年
- 『長いお別れ』(The Long Goodbye) – 1953年
- 『プレイバック』(Playback) – 1958年
特に『長いお別れ』は、マーロウの内面的な葛藤と友情のテーマが深く描かれており、シリーズの中でも特に評価が高い作品なので、最初にどれか一つ読む場合は、おすすめです。
フィリップ・マーロウのキャラクター
マーロウは、ハードボイルドの代名詞と言っていいでしょう。彼は孤独な存在でありながら、強いモラルと正義感を持ち、依頼人のために危険を顧みず行動します。彼のシニカルなユーモアと鋭い観察力、そしてタフでありながらも内面には柔らかさを持つキャラクターが、今でも多くの読者に愛されています。
彼の言葉にはウィットと皮肉が交じり合い、その言動からは孤独な人生を送る男の哀愁が漂います。彼の行動原理は、単なる金銭的な報酬ではなく、自らの信念に基づく正義感と依頼人への忠誠心です。
いつのまにかリーアム・ニーソン主演で、2022年に映画が公開されていました。
でも、リーアム・ニーソンは、私のイメージするマーロウじゃないです。ちょっと気弱な善人感があるので。
それが映画「96時間」のときはハマったのですが、ハードボイルドではないです。
レイモンド・チャンドラーのスタイル
チャンドラーの作品は、その独特の文体と魅力的なキャラクター描写で知られています。彼の文章はしばしば詩的であり、ロサンゼルスの風景や社会の暗部を描写する際には、鋭い比喩や独自の視点が光ります。彼の作風は、単なるミステリー小説の枠を超え、文学的な評価を受けることが多いです。
フィリップ・マーロウとレイモンド・チャンドラーの作品は、後のハードボイルド探偵小説やフィルム・ノワール(犯罪映画)に多大な影響を与えました。
今日でも、ミステリー小説の古典としてその地位を確立しています。
総評
フィリップ・マーロウシリーズを傑作たらしめているのはおそらく文体と、立っているキャラと、いかしたセリフのせいです。私もそこに魅かれます。
村上春樹がこのシリーズを翻訳した動機は、当然大ファンだからです。しかしその村上春樹をして後書きで「チャンドラーの小説は推理小説としての整合性を欠いている」と言われてしまうくらい、謎がほったらかしで終わります。
私は、島耕作シリーズくらい振り切れているケースを除くと、漫画や映画を見て「ここ、おかしくね?」とツッコミを入れたがるタイプです。
そんなわけで、このシリーズにはかなりひっかかりました。
「なるほどそんなトリックが!」みたいな箇所は一つもないのは、まだ許せるとして
「大いなる眠り」で運転手を殺したのは一体誰?とか
「プレイバック」の駐車場管理人が、自殺した動機はなに?とか
なんでそんなタイミングよく、犯人同士の言い争いがはじまる?とか。
物語をすすめるための、ご都合主義的展開なんですよね。
これからお読みになる方は、そのあたりは目をつぶってあげてください。
さて、この記事を書くきっかけになった、葬儀屋ネタの描写やセリフがでてくるのはなぜか、ということなんですが、シニカルなブラックジョーク感を出しやすいということと、
マーロウが、というかチャンドラーが葬儀屋という職業を下に見ていることに起因するのでは、というのが私の見立てです。
では、以下、具体例を御覧ください。
リトル・シスター
あらすじ
探偵フィリップ・マーロウが田舎町から出てきた若い女性オーファメイ・クエストの依頼を受ける物語。彼女は行方不明の兄を探してほしいと依頼するが、調査を進める中で、彼の失踪にはハリウッドの裏側に潜む陰謀や犯罪が絡んでいることが明らかになる。
引用文
彼女の声はだんだんすぼんで、悲しげな囁きのようになった。まるで葬儀屋が前払い金を求めるときのように。
アメリカの葬儀屋ってそんなに弱気なのか(笑)
それからそうまでしてわざわざ葬儀屋を比喩に使いたいのか、チャンドラー。
「葬儀屋の使う灰色の木綿の手袋を使ってるね」と彼はうんざりした声で言った。
犯人が指紋を付けないよう手袋をしていたという、鑑識係のコメント。
アメリカ人は防寒以外の目的で手袋着用といえば、葬儀屋が思い浮かぶのだろうか。
「アター・マッキンレー葬儀社(ロサンジェルス市内に実在する高名な葬儀社チェーン)」と私は言った。(中略)一九二一年の警官たちの集まりでなら受けたはずのジョークだ。
マーロウが間違い電話を受けて、答えるシーン。このやりとりが、どのようにジョークとして成立しているのか私には理解できないのですが。
正面の窓から葬儀場が見えることについて、ドクター・ラガーディーはどのように感じているのだろう。注意深くならなくてはと肝に銘ずるのかもしれない。
これは医者の自宅前が葬儀場であることのブラックジョーク。
「あたしがシェリー・バルウを裏切るだって?」と彼は押し殺した悲痛な声で言った。まるで六百ドルの葬式みたいだ。
悲痛な声を、葬式に例えるなよ(笑)
600ドルは、当時でも葬式としては安かったのでしょう。
葬儀社の主宰が、ショパンの曲の終結部を思わせる細やかな身振り手振りを見せながら、ひらひらと歩き回っていた。その灰色の顔はとても細長く、首の二周分はあろうかと思えた。
ここは丸々2ページ使って葬儀場の出棺の描写があります。
お好きな毒を選んでボタンを押して下さい。四日後に葬儀屋の施術台の上で目を覚ますことになります。
この当時は、アメリカでは土葬がほとんどでエンバーミング(遺体保全処置)を葬儀屋が行うという理解があると、わかりやすくなると思います。
ちなみに2024年時点では、アメリカでも火葬する人の方が多くなりました。
ロング・グッドバイ
あらすじ
探偵フィリップ・マーロウは、友人テリー・レノックスが妻殺しの容疑で追われていることを知り、彼を助ける。しかし、レノックスは自殺し、事件は一見解決する。だが、マーロウは事件の背後に潜む複雑な陰謀に気づき、独自に調査を進める。
引用文
遺体は飛行機で北に運ばれ、ポッター一族の地下納骨室に収められた。
これは、村上春樹の誤訳かもしれません。原文は(ChatGPT4oによると)「The body was shipped north by plane and placed in the Potter family mausoleum.」らしく、 mausoleumは、『納骨堂」ではなく「墓」と訳すべきではないでしょうか。
おそらく当時は土葬のはずです。現在語訳で納骨室と訳すと火葬後に遺骨を収めるところになってしまいます。
どうしてもっと物静かな仕事に鞍替えしないんだ。たとえば死体防腐処理とか」
トラブルに巻き込まれてるマーロウに対して調査機関の知り合いの男が言うセリフ。
死体防腐処置(エンバーミング)は、確かに仕事中は静かではありますが、一般の人が嫌悪感を催すため選ばない職業をあえてチョイスすることで、毒を含ませたのでしょうか。
マーロウは「覚えるのに時間がかかる」と返しています。
とても興奮したように見えた。安物の葬式で張り切っている葬儀屋みたいに
特ダネを手に入れた新聞記者の描写なのですが、安物の葬式で葬儀屋がなぜ興奮するのかは、不明。
高額の葬式ならわかるんですが。
事件のことも僕のことも忘れてほしい。ただその前に〈ヴィクターズ〉に行ってギムレットを一杯注文してくれ。そして今度コーヒーを作るときに僕のぶんを一杯カップに注いで、バーボンをちょっぴり加えてくれ。煙草に火をつけ、そのカップの隣に置いてほしい。そのあとで何もかもを忘れてもらいたい。
これは別に葬儀屋を揶揄している箇所ではないのですが、自殺する直前のレノックスが、友人であるマーロウに対し、自分の弔い方を依頼しつつ惜別の言葉に代えているのが、とても切なく、良かったのでとりあげてみました。
本当は、どんでん返しがあるんですけどね…ってネタバレですね、すいません。
高い窓
あらすじ
探偵フィリップ・マーロウが裕福な未亡人エリザベス・ムーリーから依頼を受け、彼女の義理の嫁が盗んだとされる希少なコインの捜索を始める物語。マーロウは調査を進めるうちに、コインの行方だけでなく、複数の殺人事件や裏社会の陰謀に巻き込まれていく。
引用文
がらんとした廊下を歩き、葬儀場のように広々した、陰気に静まりかえった一段低い部屋を抜け、玄関ドアの外に出た。
葬儀は教会でやることが多いので、当時葬儀場という場所があったのか、気になるところです。お別れを行うviewing用スペースのことを指しているのでしょうか。
通りの向かいにはイタリア人の経営する葬儀屋があった。
「葬儀社の持ち主でね。この建物やら、他のたくさんの建物を所有している。言うなれば、このあたりを仕切っているようなもんだ(中略)選挙の票も思いのままに動かせる。実力者だ」
土地の有力者として葬儀屋が登場します。見た目はカッコよくて、裏で権力を握っているマフィアのボスタイプとして描かれています。
こう言われたマーロウは「じゃあ、彼が選挙の票をまとめたり、死体をいじったり、あるいは何でもいいが好きなことをしている間に、おれたちはさっさと上に行って~」という毎度の毒のある返しをしています。
余談ですが、映画ゴッドファーザーのオープニングで登場する人物もイタリア系の葬儀屋でしたね。
少ないサンプルで判断できませんが、葬儀屋にイタリア系が多いとか。
「そのうちに彼の、ささやかな目立たない葬儀が出ることでしょうね」
これは定番の脅し文句ですね、
トニー。葬儀がひとつ──店の おごり。
これは先程の、葬儀屋のセリフ。笑いながら言っているが、なんかあったら殺すぞという脅しを言外に含んでいます。
大いなる眠り
あらすじ
探偵フィリップ・マーロウが富豪将軍スターンウッドの依頼を受け、彼の娘たちに関わる脅迫事件を調査する物語。マーロウは、次第に複雑に絡み合う犯罪や秘密に直面し、殺人や裏切りが絡む暗黒の世界に足を踏み入れる。やがて、スターンウッド家の隠された過去と現在の問題が明らかになり、マーロウは正義を貫きながらも、厳しい現実に直面する。
引用文
何度も何度も唇を 舐めた。唇のひとつが、ゆっくりともう一方に重ねられた。そこには葬式を思わせる忘我があった。葬儀屋が手をこすり合わせるのと同じだ。
間もなく亡くなりそうな大物の老人の描写。
後半部分の原文はこちら
There was a funeral absorption in it. Like an undertaker polishing his manners with a soft dry hand.
「葬式を思わせる忘我」が何度読み返してもよく分かりませんが、absorptionが「没頭」だとすると、葬式で雑念に惑わされず故人のことを思っている様子でしょうか。
あと「葬儀屋が手をこすり合わせる」ってなんだ?と思いました。
原文を直訳すると「やわらかく乾いた手で作法を磨く」なので、手をこすり合わせるは、唇の描写と揃えるためのけっこうな意訳の気がします。
老人が亡くなりそうな状況と掛けて、あえて不吉な葬儀屋を使った比喩にしたとか?
プレイバック
あらすじ
探偵フィリップ・マーロウが失踪した女性エレイン・ハドリーを探す依頼を受ける物語。彼は彼女を追って、カリフォルニアの小さな町エスクロンドにたどり着く。エレインは逃亡中であり、その背後には複雑な過去と犯罪が隠されていることが次第に明らかになる。マーロウは、彼女の安全を確保しながらも、彼女の過去と関係する陰謀を解明していく。
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」のセリフが有名
引用文
日曜日には自分が埋葬されちまったような気がしたものだ。何もかもが、まるで銀行の大金庫みたいにぴたりと閉じちまうんだ。グランド・ストリートを歩いても、死体置き場の死体ほどの喜びしか得られなかった。(中略)当時の葬儀屋は大賑わいだった。
退屈した老齢の男たちがどんどん死んでいって、残された妻によって葬られた。ろくでもない女どもがさんざん長生きした。
これは口の悪い老人が、毒のある言葉を吐き続ける回顧録。
水底【みなそこ】の女
あらすじ
探偵フィリップ・マーロウが失踪したクリスタル・キングズリーの捜索を依頼される物語。クリスタルの夫デリクは、彼女が愛人と駆け落ちしたと考え、マーロウに調査を依頼する。マーロウは捜索を進める中で、彼女の行方不明に絡む殺人事件や複雑な人間関係に直面する。
引用文
医師は腹立たしげに歩き去った。そして肩越しに言った。「葬儀代を私に払ってもらいたくなったら、教えてくれ」 「きついことを言うね」とパットンはため息混じりに言った。
保安官代理に対して、検死した医師が吐き捨てたセリフ。医師は体よくこき使われる立場のようです。
正規の検死官も呼ばれなかった。葬儀屋がかわりばんこに一週間ずつ、検死官の代理みたいなことをやっているんだが、連中は当然ながら通常、政治的な力を持つ連中の言いなりになる。小さな街では、この手の事件をもみ消すのはそう難しいことじゃない。
小説の描写ではありますが、検死制度がいい加減で、葬儀屋に協力を求めるあたりは日米共通だなと。
「また葬式に遅刻したな。この件では、やつの鼻をしっかりあかしてやったぜ、ショーティー」
殺しの現場に遅れてきた、警察の同僚を見て言うセリフ。
以上、興味を持った作品があったら是非、読んでみてください。
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