今回紹介するのはこの本。
終活なんておやめなさい –ひろさちや
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終活なんておやめなさい (青春新書プレイブックス)
ひろさちや 青春出版社 2014-05-21
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以前出版された
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お葬式をどうするか―日本人の宗教と習俗 (PHP新書)
ひろ さちや PHP研究所 2000-08
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と重複している部分が結構ありますが
さらに過激な主張になっています。
この本読んだ方にお聞きしてみたいんだけど
彼の考え方って共感できますか?
私は全く共感できないです。
この本の主題はこの部分に集約されています。
自分の死後、遺族に「ああ、何もかも片づけていって、立派な父親だったなあ」
と思われたいのです。
要するに自分をよく見せたい、善人と見られたいわけですから、これは我欲以外の何ものでもない。(P27)自分の葬式を執りおこなうのは誰ですか?自分で自分の葬式ができますか?であれば自分のものまで決めるのは、やりすぎなのです。かりに妻から、「あなたのお葬式はどうしたらいいですか?」と聞かれたら、
「知らん」のひとことで片づけるのが、
道理がわかった人間のふるまいです。(P37)
おそらく彼がこういう考え方をするのは
実際の終末の現場を知らないからではないでしょうか?
亡くなった人が(意図的か仕方なくかに関わらず)ほったらかしにした結果
残された遺族がどんだけ苦労しているか
御存じないのでしょう。
終末の現場を知る
医師や弁護士や葬儀屋が
終末への準備を勧めるのは決して商売だけが目的、というわけじゃないです。
本当に準備がないとみんなが困るということをリアルに知っているからです。
それを欲にまみれていると非難するというなら
「今日をより良く生きよう」というのも欲でしょう。
今すぐ死んではいかが?
ひろ氏は
自分が達観したということを自慢したいだけではないのでしょうか。
だとしたらそれこそ欲にまみれているのでは?
もしくは現実逃避?
もしくは現実逃避?
確かに自分が死んだときに自分は存在しません。
しかし死んだときの自分のことを思う我はここに存在します。
まれにご自身が余命宣告を受けたからとおっしゃって
葬儀の事前相談にお越しになる方がいらっしゃいます。
「自分が死んだときに家族が困らないようにすることが
今できる唯一のそして最後の愛情表現なんです。」
そう言う彼ら彼女らは例外なく「強くて美しい」と私は思うのです。
ひろさん、もしあなたのおっしゃることが仏教の悟りであるというのなら
(恐らくあなた独自の拡大解釈だと思いますが)
悟りとはなんと臆病で醜悪なものなのか、と言わざるを得ません。
以上が総論。
以下は個別に反論していきます。
終活というのは「俺はここまで家族のことを考えていたのだ」ということを訴えたいがためのアリバイエ作にすぎないのです。もちろん、そんなアリバイは家族の間では通用しません。「さんざん家族を蔑ろにしてきて最後だけ格好をつけようつたつてそうはいかない」それが残された家族の本音です。(P31)
なんで全員が家族を蔑ろにしている、っていう前提なんでしょうか?
そうでない人の方が多いと思いますが。
「立つ鳥跡を濁さず」って
日本人の美しい思想だと思うのです。
利己主義ではなく利他的に
利己主義ではなく利他的に
最期をキレイにしようと思うのがなんで悪いのでしょうか?
歳をとって病気になり、看護や介護が必要になっても、
子ども世代、孫世代が面倒をみてくれます。
「私はいま手が空いているから、おじいちゃんのお世話はまかせて」という塩梅です。つまり、何の憂いもなく老人生活を送れるのですから、
終活なんていうものはまったくする必要がないのです。
大家族主義であったかつての日本もそうだつたのです。それを、近代化だか、個人尊重だか、知りませんが、
訳のわからない理屈を掲げて、すっかり壊してしまった。(P163)
大丈ですか?ひろさん。
かつて看護や介護をやっていたのは
イエという制度のもとで犠牲になってきた「嫁いできた女性」ですよ。
医療制度上の問題はあっても介護のプロに委託できるようになった現代の方が
あの時代よりいいに決まっているじゃないですか。
あの時代よりいいに決まっているじゃないですか。
それから
昭和初期まで大家族主義だったのは
その形態の方が生活コストがかからなかったからに過ぎません。
だから豊かになればなるほど
一世帯当たりの人数が減っていったのです。
一世帯当たりの人数が減っていったのです。
ノスタルジーで「訳のわからない理屈を掲げ」て言わないでください。
宗教学者という肩書きから俗人には理解不能な高尚な人物と見られがちですが
ここまで読んでくると単に浮き世離れしているだけなのでは?
という疑問が湧いてきます。
という疑問が湧いてきます。
この死体の処理に関して問題が起きるのは、
それを担うべき遺族がいない場合でしょう。いまは孤独のうちに死んでいく人も少なくはありません。
そこで、「誰にも知られず、腐乱死体になるなんてみっともない。せめて、
そのためのお金くらいは残しておかなければ……」しかし遺族がいなければ死体の処理は行政に任せておけばいいのです。そのために私たちは税金を払っているのです。各自治体が責任を持って処理する。それが当然のことです。(P55)
金は払ったんだから
ほったらかしにしとくんで、あと面倒見ろや、
ってひどすぎませんか。
それに
ひろ氏は、印税払っているかも知れないけど
亡くなっている人のほとんどは税金収めるどころか
年金の世代間格差分を若い世代からもらっているという構図なんですが。
これは構造的にやむを得ないところもありますが、
「当然のこと」って威張られるとね。
これは構造的にやむを得ないところもありますが、
「当然のこと」って威張られるとね。
それから一度ひろ氏には
腐乱死体の処置と特殊清掃を実際にやらせてみたいです。
腐乱死体の処置と特殊清掃を実際にやらせてみたいです。
まったく孤立無援で死を迎えたケースでは、
ぃったいどのように処理されるのか、
不安を抱えている人も少なくないかもしれません。そこでつましい生活をしながら、苦労してためたいくばくかのお金を葬式代として残しておこう、と考えたりする。
しかし、前にもお話ししたょように、そんな気遣いはいっさい無用です。
孤立死する人がいるような社会にしたのは、政治の責任、行政の責任です。
責任は原因をつくったものがとる。
それが社会の基本原則でしょう。
死後放っておかれた死体の運び出しも、その後の処理も、葬式も、埋葬も……
何もかも一切合明を行政の責任でやらせればいいのです。こちらには「税金を払ってきた」という錦の御旗があります。
行政側は公僕、つまり、その税金で雇われているサーバントなのですから、
納税者のために働くことが彼らの本分なのです。(P194)
行政の責任っておっしゃいますけど
おひとり様になれ、っていう法律でもあるんですか。
おひとり様になれ、っていう法律でもあるんですか。
学生運動中の学生じゃあるまいし
なんもかんもお上のせいにするのはみっともないですよ。
私にはあなたが卑しい人にしか見えないのです。
これがひろさちや氏のいう「悟り」なら悟らなくていいや
これがひろさちや氏のいう「悟り」なら悟らなくていいや
「なんとか相続税を節税する方法はないだろうか?」
「生前贈与したほうが得かな?」などと
金勘定に躍起になっている終活と、
自分のなかにお浄土をつくることに幸せを感じる終活。
私は後者がはるかにすばらしい、前者は老いの生き方として恥ずかしい、と考えるのですが、みなさんはどうでしようか。(P175)しかし、人生も晩年になって、金、金、金……というのは
みっともなくはないですか。(P179)
金塊を自宅にため込んでいた(泥棒に盗まれたことで発覚)人間の言うことではないですよね。
みんなもう忘れたと思ってるんですかね。
人は何も持たない裸で生まれてきて、何ものも持たないで還っていく。その道理に気づくことが、生死をあきらめることだ、と思います。そして、そのことをわきまえて生きるのが、人生を生きるということなのです。生活至上主義のまさしく対岸にある生き方です。「すべてを投げ捨てていく」のが死ということなら、終活などアホらしいかぎりであることはいうまでもないでしょう。(P167)
「すべてを投げ捨てていく」ことを避けられないと知っているから
みんな終活してるんじゃないですか?
年長の方に向かってこういうことは言いたくありませんが
アホらしいのは終活ではなくあなたの考え方ではないですか?
「ひろさちや」氏、名前だけはひらがなで珍しいので、記憶にありましたが、何をしている人か、男か女かも知りませんでしたが、仏教の研究者のような感じなんですね。もちろん著書も読んだことがありませんでしたが、今回、物理教師さんが書かれたことで、おそらくどれ一つ読む価値はなさそうに思いました。この記事については深く同意します。職業柄、読まねばならないのでしょうけど、途中で苛立ちを覚えてなかなか読み進めなかったり、辛い作業だとお察し致します。出版業界は厳しいのでしょうが、このような人でも生き残っていける甘さがあるんですね。それがちょうど良い読者がいるのでしょうね。この場所で、一つ一つおかしいと思えることを指摘していくのは大いに意味があると思いますので、物理教師さんの応援を続けますよ。
それにしても、引用された文を見ても、品格に欠ける方のようですね。ひろさちや氏が、自分自身の終活を考えるにあたって、せっかく貯めたお金を死後、社会のためとして税金にも、家族にも、もちろん、葬儀関係にも一切渡したくなく、生きている間に自分のためだけに使いたいということに何か理屈を付けようとしてそのような主張になったのかと推察しました。
シギー様、
>物理教師さんの応援を続けますよ。
ありがとうございます。
>辛い作業だとお察し致します。
以前はそうだったんですが、最近はブログのネタになる、
と思えるようになったんで助かってます(^^;)
ワイドショーのテリー伊藤みたいにとりあえず人と違うことを言ってみる
という戦略なんでしょうか・・・
宗教学者≒深い思想のある人
っていう世間の下駄の履かし方にも幾ばくかの原因はあるのでは
とも思います。
こんな認識で本って出せるんですね。なにか世の中に不満があるんですか?っていう印象で何と戦ってらっしゃるのか・・・。家族に憎まれてる前提は酷い…。
しかし、終活という言葉が独り歩きしてメディアに取り上げられているのがいけないのかな?と感じています。
まず、目的よりも先に言葉が全面に出て流行しているというだけの状態をメディアが映し出す。
ハロウィンも終活もヘイトスピーチも先に言葉が有るように思えてなりません。
この方、身内を亡くした経験ないんでしょうか?かつては縁起が悪いと死についての話は避けられ、結果遺族が苦労をしました。大切な家族にそんな苦労はさせたくないと、皆さん終活されるのでは?
晩年に金、金言うのはみっともないって、そういうセリフが言えるのは一部のお金持ちだけです。あるいは計画的に人生を考えて、それこそ終活してきた人とか。
行政が責任とって腐乱死体片づけなさいって、実際作業するのは委託された人。「金払ってるんだから文句言うな」とおっしゃるなら、それこそ人生の晩年にみっともない台詞です。
や、ひろさちやの本については、なんか、心の中で敬遠しとる所があって、今回、俎上に挙げられた本も読んで無いのですが、ワシ的には「終活なんておやめなさい」つうタイトルには共感しています。
これは、のんべんだらりと、昔ながらの営業している坊主だから思うのであって、既得権益を打破し、新たなブルーオーシャンを目指す業者さんとは、また違った感想なんでしょうが、そもそも、葬儀で苦労したなんて、感想を持たれる方の故人への想いというのは、只々、故人のために迷惑を蒙ったってことに他ならんわけで、だからこそ、今回のブログ記事の最初の引用文につながるのだと思います。
つまり、祀ることとは、送る側の義務であって、要するに重荷だというハナシで、これはひろさちやの本当の経験については知りませんが、実際(迷惑な故人の)終末を経験した者の感想、あるいは、それを装った作り話に思え、その不安感、恐怖感を終末の現場を知らない者に伝える、終活を促進するツールだと思いますし、最初の引用文は、そのネタに対するオマージュにも思えます。
元来、祀ることは、残された者、見送る者の権利だと、ワシは思っていまして、要するに、終活てのは、残された者、見送る者の権利に対する侵害だとさえ、ワシは感じています。
実際、故人の意思とやらで、こちらや遺族にとっても遠隔地の葬儀場を故人が予約され、出仕させられたり、非常にややこしくなった経験が、何度もあり、余計なことをされたもんだと、感じたことも多々ありましたので、本も読んでも無いのに、横槍させていただきました。(続く)
(続き)
次に、税金がどうたらという話ですが、日本には、明治以来の行旅病人及行旅死亡人取扱法という法律があり、実際の現場がどうたらと書かれていますが、これは行政が「スベシ」ことです。
「みっともない」だとか、行政には頼りたく無い健気な心意気で、終活される単身者も居られるでしょうが、病院でならともかく、死というものは突然やってくるもので、その場合、誰が発見してくれるのかは、以前、http://kangaerusougiyasan.com/archives/1589498.htmlてな記事を挙げられていた通りですし、それも自宅での場合に限った問題に過ぎません。
てことで、ひろさちやがどう記しているか知りませんが、不安となれば、どこまでも底はありませんので、そこはむしろ、開き直るべきだと、学生運動中の学生並みかもしれんワシは感じます。
死後のことなんかより、今をどう過ごすのかが大切だと、ワシは思います。
ま、「チェンナイエクスプレス」のラフール(SRK殿下)は、故人の意思に則り、ラーメーシュワラムに散骨(灰)に行ったおかげで、ミーナ(ディーピカーちゃま)と会えたわけで、故人の意思てのも疎かには出来んのですが、今の葬儀の事前予約みたいな終活については、あくまで、ワシの立場上でしょうが、疑問に思っています。
かかし様、
>ハロウィンも終活もヘイトスピーチも先に言葉が有るように思えてなりません。
今年のハロウィンの上っ面感はひどかったっすねー(^^;)
はっちゃん 様、
いまふと思ったんですけど
この著作の多さを考えるともしかしてゴーストライターいるんでは?
と疑っています。
uhodoji様 丁重なコメントありがとうございます。
結論から言ってしまうと
終活に対するスタンスは最終的には故人の価値観だと思います。
(なので今回のタイトルは「反論」ではなく「同意できない」にしました。)
ただ現場の経験から言うと
本人の葬儀の準備がマイナスになったケースよりはプラスになったケースの方が
圧倒的に多いと思うのですが、いかがでしょうか?
>本人の葬儀の準備がマイナスになったケースよりはプラスになったケースの方が
圧倒的に多いと思うのですが、いかがでしょうか?
や、葬儀屋さんとしては、そうに違いないと了解します。
ただ、ワシの立場としては、マイナスの風景の方を多く見たように、感じています。
ま、見送られる側の感情は(亡くなられたので)不明ですし、残された側が、どう感じられているのかも、愚痴など耳にした憶えもあり、温度差のある話なので、判定は付かんと思います。
であるなら、見送られる側には「無駄なことを考えずに、今をしっかり生きなさい」としか言えんのが、ワシの立ち位置になります。
もちろん、売文屋が、新書本に、何を書かれたのかも確認もせずの投稿で、「終活」についてのみ、立場の違いが別れたなぁという感想なので、捨て置いて下さい。
物理教師様
ゴーストライター説、ありますね。
ご本人は相当忙しく講演なさってるそうですので。真相は不明ですが。
uhodoji様
全然関係無い話ですが
12億人もいると↓こういう才能もいるという動画です。
はっちゃん様、
今回も別の著書のリライト箇所が結構あるんですよね。
本人かもしれませんが。
はじめまして。
いつも楽しみにしてます葬儀社勤務です。
残念ながら、ひろさちやさんのおっしゃることかなり同意してしまいました。。
最終的に死んだあとのことはなるようにしかならないし、それも遺族の人生の一部なんですよね
事前に準備と言っても誰もが正しい選択をできるわけではないし、自分勝手さや、思い込みで突き進んでいる人の多さを見るにつけ、私は、こういう遺族に全部任せます!のありかたがが正解に近いのではないかと思うようになりました。
もちろん、立派な遺族がいることが前提ですが。。
一般誌は「3T」(テーマ、タイトル、タイミング)と言われており、内容やその正否、作者は問題とはならず(一部の有名作家は除く)、3Tが揃えば本は売れます。
そのために、出版社や編集者は話題のテーマ、目を引くタイトル、流行り中のタイミングの本を出したがり、「内容的には疑問な本」(売れれば良書、売れなければ悪書)も数多く出版されます。(俗に言う時事ネタ本)
本来は、しっかり調べ上げて書けば良いのですが「先を越される前に出す」との考えから、1か月以内に書き上げて3か月以内に店頭へとの短期勝負となりました。
山崎豊子さんの様な作家はいなくなり、ノンフィクション作家は1~2度の取材と提供資料、追加取材は電話とメールだけとの信じがたい状態で本を書いています。
そのために、ひろさちや さんも出版社にテーマとタイミング(入稿時期)を指定されて書いたのではと考えています。(タイトルも編集者が決める)
昨日、テレビに吉川さんが出ていました。
自称、終活の専門家や権威が溢れた現在では、「吉川さんは、まともな方」と感じました。(資料は疑問もあるが)
uhodoji様のコメントを見て気付きました。
結局、残された者に迷惑な内容か否かなのですね。「さんざん家族を蔑ろにしてきた人」ばかりが著者の周囲にいるのでしょうね。
動画ナンドゥリ。
オームプラカーシュマキジャーのお母さん(キラン姐さん)のオーバーアクションが、ちょっと切られていて、その分は残念でしたが、こども達の踊りは、ブラボーの一言。
(*^^)v
ともぞう 様、はっちゃん 様、uhodoji様
コメントありがとうございます。
いろんな意見を頂いて勉強になります。
この件に関しては
ちょっと付け足して書きたいこともあるので
もう一本記事をアップすることにしました。
prof様
>「吉川さんは、まともな方」と感じました。
現場上がりらしいので
とんちんかんなことは書かれないようです。
これで反論してるつもりでいるのなら、幸せなことだ。
反論が反論になってない。
結論から言って死に方は個人の自由。
>「今日をより良く生きよう」というのも欲でしょう。
今日をよりよく生きるのは欲ではなく、生物として当然の理。よりよく生きる=勤勉、勤労ではない。行き場のないひきこもりが精一杯ゲームをやる、病人がじっと寝てるのもよりよく生きるにあたる。
>確かに自分が死んだときに自分は存在しません。
>しかし死んだときの自分のことを思う我はここに存在します。
死んだときの「他者」のことを思う我が存在しない時点で終活は無意味。違う環境、文脈で生きている限り、他者の事を思うなんて不可能だから。
>行政の責任っておっしゃいますけど
>おひとり様になれ、っていう法律でもあるんですか。
>学生運動中の学生じゃあるまいし
>なんもかんもお上のせいにするのはみっともないですよ。
まず、ひろさちやはおひとり様になれなんて言ってない。
孤独死しようが看取られ死しようが個人の自由で、死んだ瞬間魂は極楽浄土に行くんだからその後のことは全部遺族に任せればよいと言っている。
孤独死した際の賃貸業者の損害と、倒れたのが偶々見つかってその後延々と増え続ける治療費、介護費。どっちが社会の負担にならないんだろうね?どっちが良い生き方なんだろね?
どっちでもいいというのがひろさちやの意見だと思うけど。ただ、孤独死を非難したり終活に夢中な人が多いから(やや極論だけど)反対してるに過ぎない。
そもそも引用してる部分が些末な問題すぎてつまらん。
>「すべてを投げ捨てていく」ことを避けられないと知っているから
>みんな終活してるんじゃないですか?
すべてを投げ捨てられない=(ひろさちやの言う)くだらないプライドにすぎない。で、それを吹き消せというのが仏教なんだよなぁ…。ちゃんと本読んだ?
ブッダが相手によって説法を変えたように、この本を手に取りそうな方の不安が少しでも解消されるように書かれたのだと思います。
葬儀屋さんにむけて書かれた本ではなかっただけ
あなたは人の不幸で飯を食う立場にいるわけだから、ひろさちやの本に安易に文句言わないほうがいいよ。
ひろさちや氏の言動には、2つの許せない記述がある。
①孤立死する人がいるような社会にしたのは、政治の責任、行政の責任です。
責任は原因をつくったものがとる。
それが社会の基本原則でしょう。
⇒孤立死を社会や政治のせいにするなかれ。第一義的には本人のせいであるはずだ。
人のせいにしたり、社会のせいにすること自体がすでに間違っているのではないのか。
社会に間違った風潮を流すのではない。
②金勘定に躍起になっている終活と、自分のなかにお浄土をつくることに幸せを感じる終活。私は後者がはるかにすばらしい、前者は老いの生き方として恥ずかしい、
と考えるのですが、みなさんはどうでしようか。(P175)
人生も晩年になって、金、金、金……というのはみっともなくはないですか。(P179)
⇒と言いながら、自分は金塊を自宅にため込んでいたのです。(泥棒に盗まれたことで発覚)まともなお金でためたとは思えない。そんな人間に終活のことをとやかく言われたくない。
ひろさちや氏に対するなかなか良い反論のように見せかけて、この腐れ葬儀屋は葬儀屋なら知っている大事なところを隠してますよね。
ひろさちや氏は初期仏教も含めて研究してきている仏教の人なので、その当時から今に至るまでがどうなのかを考えて話すわけです。
ようするにお釈迦さんが生まれた当時に葬儀屋が「立派な祭壇にしましょうお値段は120万円です」なんて営業はしていなかったわけですよ。弟子たちが自分自身の考えて寺院を建立はしてますけどね。偉そうに書くなら余計な営業するなよ葬儀屋。
葬儀屋が必死に故人様ならこのようにお送りすべきだと言われるがままに葬儀したら二百万オーバー。参列者が少なく香典補填も大したことがない。残った遺族が葬式貧乏なんて例はいくらでもある。そこを明示して自戒できないのはなぜだ?葬儀屋。
葬儀屋が感謝されることも当たり前にある。しかし感謝されないこともある。
下手なミスリード仕組むなよ葬儀屋。
ちなみに24のタケル君。ひろさちや氏は金を捨てろと書いてましたが?
みっともないとか書いているだけですよね。現代で金は生きていくために必要なものです。自分が働いて稼ぎだした金を金塊にして貯めることは何も悪いことでないですよ。
金を貯める=執着というのは短絡的過ぎる。貧乏人でも金に執着して少しでも付け入る隙があれば店の店員に難癖を付けて安くしろと脅迫してくる。
ひろさちや氏がそんな人間であれば非難するに値するでしょうけどね。そのような証拠は「今のところ」どこにもありません。
>佐藤誠さん
貴方の意見に私も同意ですね。
わたしは、ひろさちや氏に同意していますよ!
ようは葬儀屋さんにとって、ひろさちや氏の意見は都合が悪いということですね。分かります
反論も結構ですが、まず著者に対するリスペクトが欠けている時点で説得力がありません
物事に正解が無いように、様々な意見、考えがあってしかるべきです
葬儀屋さんの意見も一理ありますが、ひろさちや氏の意見も共感に値すると思います
結局は各々がいろんな意見を参考とし、自分で終活に対し結論を出せばいい
ちなみに自分はひろさちや氏の意見に一票とさせていただきます
あなたの葬儀屋さんにお願いしたくありません
でもあなたは立派なシャカイジンなのでしょうね!