太平洋のミクロネシア連邦にあるヤップ島では
かつてお金は大きな石でした。
石がお金って原始的、
と思われるかもしれません。
しかし、お金としての仕組みは実は先進国と全く同じです。
モノだと持ち運びや交換の際不便なので
人々は硬貨(金貨・銀貨・銅貨など)を使うようになりました。
さらに便利にするために紙(紙幣)使うようになりました。
そして現在は銀行のデータという形になり
モノですらなくなっています。
みんなが、石・貨幣・紙幣・銀行のデータにお金としての価値がある
と信用しているから
お金として流通する。
これはよく考えてみると不思議なことですよね。
だって、例えば1万円って「紙」ですよ。
政府や中央銀行が価値を保証しているんだから
流通するのは当然って思いがちですが
デフォルト(債務放棄)をするような国の紙幣なら、
政府や中央銀行がどんなに保証したところで、国内ですら紙くず扱いです。
「信用」は言い方を変えると「思いこみ」なのかもしれません。
さて
石のお金=貨幣価値=信用 という関係性を
お墓 = 魂 =信仰 という関係性に置き換えて考えたら
どうでしょう。
果たして大きな墓石と土地という(ほぼ)不動産、である必要があるのか?
現代では、お金というものがモノという形態を取ることすら
なくなりつつあります。
お墓も最終的にそういう流れをたどってしまうのではないでしょうか。
人の魂は貨幣価値と一緒にしてはいけない?
そう、貨幣価値の方が
より存在がはっきりしていて、より多くの人が存在を認めているものです。
それが手で触れることのできない形をとることを多くの人が認めている。
であるなら、よりあやふやな(と思われている)存在である人の魂の方が、
(なおかつその信仰を、
貨幣のように不特定多数に流通させる必要もないのであれば)
より簡単にモノとしての存在を脱ぎ捨てることができる
とは思いませんか。
モノでは無くなっているのに貨幣価値という信用は生き続けているのです。
そうであるならば別に墓が無くなっても魂や信仰は生き続けるのでは?
墓はいらなくても遺骨は大事?
墓石ではなく遺骨に価値があるという仏舎利信仰を採ったとしましょう。
その場合も
中間形態である貨幣や紙幣が存在するなら石のお金が不要なように、
手元供養にすれば墓は要らないということになります。
でもその考え方はどうしても感情的に受け入れがたい?
そう私も同感(^^;)
(参照ページ:お墓の思い出)
でもこの感情の発露というのは
動かせないくらいの大きい石に貨幣としての価値があると信じて
なかなか貨幣を受け入れることが出来なかった
ヤップ島の人々と同じ事なのではないでしょうか。
うーん、自分で論じておいてなんか不愉快・・・
お金は日常的に使うが、
墓参りは日常的に行わないという反論も考えましたが、
ちょっと弱いな。
魂や信仰は毎日存在していますからね。
だれか論破してください(^_^;)
参考文献(↓捕まってしまいましたが、本の内容はまともです)
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