葬式仏教は正しい




葬式仏教は正しいのか、というお話。

今回ご紹介するのはこの本。

葬式仏教正当論―仏典で実証する

鈴木 隆泰 興山舎 2013-12
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by ヨメレバ

 葬式仏教批判の一つに

「そもそも原始仏教は葬式を認めていなかった。
そう教典に書いてある」
というものがあります。

それに対しサンスクリッド語を解する学者兼和尚
「いやいや、違う。それは教典の解釈を間違えている。 
そして葬式を認めている教典もある」
と反論している内容です。

たとえば
「釈迦は自分の葬儀を禁じた」
というよく知られた従来の説の根拠は
大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)に収録されている釈迦の発言、
「君達は私のシャリーラプージャーに関わるな」
です。

このシャリーラプージャーは葬式と訳されているので
「釈迦は自分の葬儀を禁じた」ということになっているわけですね。

しかしこの本は著者はこう反論します。
前後の文脈と併せて読み解くと
シャリーラプージャーとは葬儀のことではなく
納棺や火葬などの遺体処置のことであり
君達と言っているのは出家者のことである。
つまり釈迦の本意は
「遺体処置は在家者がやるから、君達出家者はやらんでいい」
であり、葬式を禁じてなどいない
と。

こういう再解釈を積み重ねている内容で
なかなか面白いです。
 

さて

このような議論を読んで私が考えるのは
A.もともと始祖はそういう思想だったのか(本当にその通りに言ったのかの厳密性)
という問題と
B.もともとの教義の絶対性がそれほど重要なのか
という問題です。
A.もともと始祖はそういう思想だったのか(本当にその通りに言ったのか)
に関して。
 
部下に対してメールと口頭の両方で指示だしても
間違って伝わってしまうことってありますよね。
だったら始祖が亡くなってから何百年も経ってから口頭継承されたものを編纂したら
絶対間違って伝わってるだろ!
って思うんですよね。
百歩譲ってその通り言っていたとしても
解釈を個々で好きなようにやっちゃったら同じことだし。

だから
経典主義者に関しては
伝言ゲームの結果に人生を捧げちゃって大丈夫?
と人ごとながら私は思うのです。

確かにキリスト教原理主義みたいに
経典こそが世界の基準であり。世界の秩序より上位に聖書が位置するというレベルまで
聖書無謬説というやつですね)
信じこんじゃえば発言の真偽なんて関係無くなるのかもしれないけど・・・
(↓信じこんじゃった人々がこちら)
by カエレバ
百歩譲って、仮に教典が始祖の言葉を100%正確に伝えていたとしても
解釈する人間が腐ってたらどうしようもないよね。
そして権威は必ず腐ってしまう。
そもそも腐敗した教会の勝手な解釈で免罪符発行したところから
始まったわけで。

さっきキリスト教原理主義くらいになれば、ということを言ったけど
キリスト教も教派によって信仰の度合いにグラデーションがあるから
それはそれで周りとの付き合いがやっかいなことになりそうですね。

教典の無謬説に立つなら
イスラム教が一番強いと個人的に思っています。
イスラム教ではクルアーンはアラビア語以外は認めない、
つまり翻訳されたクルアーンはクルアーンではないという徹底した立場に立っています。
(クルアーンって昔はコーランて言われていたイスラム教の教典です)
解釈に関してもちゃんと公式見解というものがあります。 
最近イスラム教の勉強してるんですけど
この観点からみると宗教の中で一番モダンで現代社会にマッチするのは
イスラム教じゃないかなと思ってしまう今日この頃。
この詳しい話はまた後日。

さて
そもそも、教典がぐちゃぐちゃになっている
大乗仏教で教典の厳密性を説くのは、
それこそ(世間で使われる意味での)神学論争、
という気がしないでもない。

よって従来の仏教教典解釈にも
この本の著者の解釈にも
私は与することができないのです。

ここで出てくるのが
B.もともとの教義の絶対性がそれほど重要なのか
という問題。

今の葬式仏教は開祖の思想からはちょっと離れちゃったかも知れないけど
多くの日本人の間では葬式の時は仏教、っていうコンセンサスできてんだから
それでいいじゃん
というのが私の考え。

ちなみに↓この本では

日本という方法―おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

松岡 正剛 日本放送出版協会 2006-09
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by ヨメレバ

歴史的に大昔から大和民族は異質のものを混在させて
全く気にしないという特質について言及されている。
仏教と神道でもずっとそれがあったと。

だから
その都度社会変化に合せて教義が変化していくのは
日本においては自然なことで、
ケセラセラ(なるようになる)
という考え方でいいんではないかな。

そもそも
いわしの頭も信心から
って言いますしね・・・
っていうと宗教界から怒られるかな。
でもこの考え方って
命の次に大切で、我々の世界を支えている「お金」についても言えることですよね。
ただの紙に過ぎない貨幣に価値があると信じるのも
金融システムに対する一種の信仰ですからね。
ビットコインの様に システムが変わっても
信仰さえあればいいわけで・・・ 

というわけでつらつらと書いてきましたけど、結論はこれ。

葬式仏教 上等!











3 件のコメント

  • まったくもってニーズが始祖の思想を欲していないので無意味ですよね。困ってもいないし。

  • 形だけの儀式で無駄にお金かかって、意味も分からない言葉を聞いて、その意味の解説もしないで坊主どっか言っちゃうような葬式仏教と揶揄されるもので良いとは思わないなぁ。

    死んだ人間より残された人間の悲しみを癒やすのが、いわゆるニーズだと思うし、そういうことを釈迦は説いてたと思うんだけどな

    本質的な意味の検討をせずに合意とれてりゃいいってのはあまりにも暴論すぎるというか…徐々にその合意は薄れて今すぐ無くなっても問題ないような儀式になってくと思うな、「葬式仏教」は。葬儀屋が葬儀の手続きするだけのプランなんかもあると聞くしもうなってるのかも?

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