島田裕巳論




島田裕巳氏(葬式不要論を唱える宗教学者)について書いた記事をまとめてみました。

島田裕巳論

0(ゼロ葬)について語ろうと思ったのですが
その前に島田裕巳氏について語ることにします。
ちなみにゼロ葬とは島田氏の提唱する
火葬場に遺骨全部置いて帰ればいいじゃん
という埋葬方法?のこと。

最近お話しした事前相談のお客様の中で「葬送の自由をすすめる会」当団体の会員の方がいらっしゃいました。
その中で最近の会の方針はちょっとね
という話題になって。
どうやらその方は自然葬(散骨)が希望だったのに
島田裕巳氏が会長になってからゼロ葬と言いだしたのが気に入らないらしく。
(追記:その後の顛末はこの記事をお読みください。→ 「葬送の自由をすすめる会」のゴタゴタについて | 考える葬儀屋さんのブログ

そこでキンドルの中に入れっぱなしだったこの本を読んでみることにしました。

0葬 ――あっさり死ぬ

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読後の感想としては相変わらずだね島田さん
という感じで。

この本は
ゼロ葬に関する記述は実質数ページで
あとは普段言っていること(葬式と墓はいらない)の焼き直し。

さて島田氏の主張を読み解くキーワードは
表層的には(疑似?)共産主義思想と葬祭業に対する差別意識であり
深層的には大衆への憎悪ではないかと思うのです。
たとえばこんな記述。

業者は消費者に対してサービスを提供する際に、消費者のためを考え、努力して、要望を満たそうとする。しかし、もちろんそれは善意にもとづくものではなく、利益追求のためであり、要は金儲けを目指している。  となると、葬儀を営むことは、業者を富ませることに直結してしまう。

人を葬ることが儲けになるということは、葬る側、あるいは葬られる側はそれだけの費用を分担しなければならないことを意味する。  それはひどく不合理なことではないか

人が生きているあいだに直面せざるを得ない生老病死の問題に資本の論理が介入し、人を葬ることから金儲けをしようとする試みが次々と生み出されてきていることを見てきた。これが今の実態であり、現状である。  本来ならば、私たちはその資本の論理に対抗しなければならないはずである。

この本の第4章で詳しく述べたように、現在では人の葬り方に対して資本の論理が介入し、それで儲けようとする人たちが増えている。

もうわけがわからない。
要は企業(葬儀屋)が利益を得るのはけしからんという話ですよね。
こんなロジックが正しいというならあらゆる経済活動自体ができなくなります。
過去何度か述べてきましたが、葬儀業界は良くも悪くも規制が無いため
自由競争市場、つまり消費者からの需要があるから成り立っている産業なのですが。

もちろん葬儀屋や墓に無駄な費用をかける必要はありませんし
極力お金をかけたくないという思想も全然問題はありません。
しかし島田氏の発言からは一つの価値感を語っているという以上の悪意を感じます。
共産主義思想については本人が後書きで述べているように
ヤマギシの体験が影響を与えているのかもしれません。
そしてもっと深い心の部分、
それは大衆への憎悪ではないでしょうか。

以前も書きましたが
オウム事件のときの彼に対するバッシングは大変気の毒でした。
ああいう経験をした人がそう簡単に大衆を許すとは思えません。

葬儀や墓によって弔うことであったりグリーフワークを行おうとする多くの大衆に対する
憎悪が島田氏の根底にあるのではないか
と最近私は思うようになりました。
そうすれば彼の発言は納得がいきます。

0葬に抵抗感を持つ人たちは、遺骨に故人の魂が宿っているとでも考えているのだろうか。遺骨を供養することが、故人の成仏に結びつくと信じているのだろうか。

私たちは必ずしも墓が必要だと思うから、それを造っているわけではない。

反論として私の記事のリンクを貼っておきます。
お墓の思い出

それに、残された人間が故人を思い出すのは、故人がした善行を通してではなく、反対に迷惑になったことを通してだったりする。死後に忘れられないためには、生前、周囲に数限りない迷惑をかけておいた方がいいのかもしれない。

あるいは、葬儀のやり方や墓への葬られ方を遺言することで、残された家族を縛ることに快感を感じるのかもしれない。

しかし今では、先祖崇拝が衰えることによって、先祖の霊、先祖の祟りといったことが指摘されたり、強調されることはなくなっている。そうしたことにリアリティーがなくなってきたからである。  それは、私たちが死者から解放される道を歩んでいることを意味する。

もし以前から本気でこういうふうに考えていたのなら
なんで宗教学者になんかなったのでしょう。
そしてもし途中変節したのならなぜ今も宗教学者を名乗っているのでしょう。
私との感覚的倫理的な共通項が見つかりません。

やっぱり
こういうことを書けば愚かな大衆どもが本を買うだろうという商業主義に徹している
のではないでしょうか。
でなければこの言動というのはちょっと首を捻らざるを得ないです。
ただもしそうなら葬儀屋の商業主義はだめで自分の商業主義はいいのか
という話になるんですけどね。
炎

それから島田氏のご両親はご存命なのでしょうか。
お亡くなりになっていたとしたら、御本人はどうやって弔われたのでしょうか。
気になります。

0葬については↓この記事をお読みください。
0葬(ゼロそう)は可能なのか調べてみた | 考える葬儀屋さんのブログ

島田先生、とうとうここまで・・・

島田裕巳先生、とうとうこんなところまで来てしまいましたか・・・

宗教消滅 資本主義は宗教と心中する (SB新書)

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いや、いつかは来るだろうとおもってましたけど(^^;)
この本、まだ出ていなくて2ヶ月以上先の出版予定なんですよね。
多分私が買うのは中古市場で半値になってからなので
さらに1年先になるかと思うんですけど。

まさかとは思いますけど
寺院消滅って本が売れている」→「じゃ、宗教消滅で良くね?」
っていう発想じゃないですよね。
違うと言ってくれ!

これって宗教が消滅したら資本主義も消滅するって言う主旨なんですかね。
それ以前に
宗教学者が消滅するだろ!
っていうツッコミを入れたのは私だけでしょうか?
島田裕巳
(↑アマゾンプロフィールより)

このなりふり構わない振り切れ方は嫌いじゃないですけど。
ただ次から何の本を書くつもりなんでしょうか。
気になります。

島田裕巳氏のインタビュー発言に反論する

あの島田裕巳氏のインタビューが葬儀業界紙フュ-ネラルビジネス6月号に載っていたのでご紹介します。
フューネラルビジネス2017年6月
<http://www.sogo-unicom.co.jp/funeral/image/201706.jpg>
幸福の科学の雑誌に登場したときも紹介しましたが、
島田氏の取材申込みから逃げない姿勢は評価します。

ただ今回のフューネラルビジネスのインタビューは、
島田氏と私の考え方が違うということ以前に、
島田氏の論理と事実認識がおかしいので指摘しておきます。
(フューネラルビジネスの編集の仕方に原因があるのかもしれませんが、
本人も原稿チェックはしているはずという前提です。)

まず総論に対して。

島田氏の発言の趣旨は
「東京の葬儀はダメ。
なぜなら東京には信頼できる葬祭関連業者がいないから。
なぜそう言えるかというと、
葬儀を「合理化」しており、従来の葬送文化をないがしろにしているから」
というもの。

自分が生まれたときに存在したものはずっと昔から存在していたと錯覚しがちですが
日本の葬儀が変化し続けていることくらい宗教学者のはしくれなら知っているはずです。
葬儀の変化はあらゆる時代で起こっています。
氏が正しいとする「従来の」葬送文化というのはどの時代のどんな葬儀を指して言っているのでしょうのか?
単に近年の葬儀に文句をつけたい、もしくは商売として葬儀に文句をつけるポジションを取り続けなくてはいけないという結論ありきの発言なのではありませんか?

そして葬儀の「合理化」をなぜ悪いときめつけるのでしょうか?
ムラ社会の習慣だった寝ずの番を核家族にやらせるべきでしょうか。
お盆の送り火を都市生活者にやらせるべきでしょうか。
このような慣習の変化は単なる合理化ではなく、
ニーズに対する適正化であると思います。

教典はそのままなのに
それぞれの時代において儀式の内容が変わってきたのは
世間のニーズや社会背景や価値観の変化があったからです。
戒名は本来僧侶のみに与えられていたのが、庶民が欲しがったので与えられた。
生前にもらうと戒律を守らなくてはいけなくなるので死後もらうことが定着した。
野辺送りはモータリゼーションで霊柩車に替わった。
など、変化の事例はどの時代にもありました。
意味を考えず原理主義的に慣習を継承する必要はありません。

そもそも島田氏の言う合理化が具体的になにを指しているのかがよく分かりません。

ここでいう合理化とは、従来の葬送文化がないがしろにされ、「形式」ばかりにこだわった葬儀スタイルとなってしまったということです。

という記述だけがありますが、葬儀ってそもそも儀式なのだから、形式にこだわるのは当たり前だと思いますし、「形式ばかり」の形式が何を指すのかがわかりません。

変化の事例として自宅葬から会館葬へ移ったこと、車で参列すると通夜に酒が飲めないことを挙げて批判していますが
前者は遺族の肉体的精神的負担を減らすことに寄与していますし、
後者は葬儀屋のせいではありません。
葬儀屋が葬式を変えてしまったと批判する宗教者や学者が一定数いますが
そもそも葬儀屋主導で葬儀を変えることなどできません。

我々は社会的ニーズに乗っかかるしかないのです。

葬儀屋が葬儀をどうこうすることができるなら、
葬祭業が衰退することなど無かったでしょう。

それから地方はまだ文化が残っている(から良い)とおっしゃいますが、現在の東京の葬儀を100年後の人がみたら、民俗学的に東京の葬儀を一エリアの一文化として捉えるはずです。
この優劣はどこにあるのでしょうか?

次に個々の記述に対する反論。

なぜ東京に限ってとなるかと言いますと、いま、東京で信頼して葬儀を任せることができる葬儀社や寺院、さらには墓石業者がいないと感じているからです。
一方、地方では依然として地域共同体のつながりがいまだに強い地域もあります。
そうした地域では、信頼できる業者は残っているでしょうし、葬儀がすぐになくなってしまうとは思えません。

これは逆だと思います。
なぜなら「地域共同体のつながりがいまだに強い」地域においては
葬儀は菩提寺や町会や近所と付き合いのある葬儀社に頼む、
という同調圧力が働いているため、競争原理が働かないからです。

さらに、葬祭会館の立地を見てみると、東京の葬祭会館は、そのほとんどが人目につきにくい場所にあることが多い。
しかし、地方都市では、主要道路沿いの目立つ場所にあります。
つまり、東京では、葬儀は人知れず行なわれることが多く、極端にいえば、亡くなったことすら知らないということもありえます。

東京の会館は人目につきにくい場所にあるというのは、事実でしょうか?
地方が車社会だと言っても、郊外にある地方会館より人口密集地にある東京の会館の方が「目立つ」のではないのでしょうか。

中盤やたらと東京の葬儀が形骸化していると言っていますが
なにをもって形骸化していると言っているのかがハッキリしません。

結婚式には偽牧師が来るという事例を挙げて

消費者も特別な思いをもって式に臨んでいるわけではないという事実からすれば、葬儀もいずれそうなって(似非)僧侶が登場しでも気にしないということになりかねないということです 。
さらに問題なのは、このような形骸化された儀式を生み出したのは事業者サイドであり、かつ、形骸化されたことに気づいていない事業者が多いことです 。

実在しない似非僧侶を想定して形骸化していると、さも既成事実かのように言っています。
言いがかりにしか聞こえません。

そもそもゼロ葬を提唱するなど葬儀を形骸化させているのはあなたの方でしょう。
これを読んでいる葬儀屋さんは
おまえが言うな!
と思ったはずです。

この点を重視して、葬儀社も単に価格が異なるプランを提案するのではなく、もっと細分化された葬儀プランを取り揃えておく必要があるのではないでしょうか 。
たとえば、遺骨は当社(葬儀社)が引き取りますといったO葬プランを提供するといったように、どれだけの選択肢を提供できるかが今後ますます重要になるのではないかと思います 。

島田氏が知らないだけで、葬儀の多様化によって現代の葬儀はかなり細分化されています。
あとゼロ葬プランはあなたが煽っているだけで、葬送の自由をすすめる会からは総スカンを食ったではないですか。
自分が失敗した方法を挙げられても困ります。

それからもう1つ 。過剰な演出はいらない。昨今、当家や会葬者を泣かせようとする過剰な演出を行なっているようですが

この間の記事(葬儀の過剰演出の原因)でも書いたように過剰演出は一般事例ではありません。
この話のソース(情報源)どこですか?

そもそも、東京の葬儀はより合理化が進み、システマチックなものになりかねません 。

と批判するなら、一件無駄に見える手間暇をかけて個々人の好みに合わせて演出を加える過剰演出は島田氏にとって好ましいはずです。
前述した「形式」ばかりにこだわった葬儀スタイルと真逆なわけですし。
いったいどうしてほしいのでしょうか。

しかしなんでこんな事実に反することを次々と言うのだろうと思いながら読み進むと衝撃の発言が・・・

私はこの 2 、3 年の問、葬儀に参列したことはありません 。

つまり現代の葬儀を良く知らないのに、調べもしないで想像で、
もしくは伝聞情報を鵜呑みにしてモノを言っているということです。
これはさすがにひどいでしょう。

この発言の後では

昨今、「終活 」という言 葉が流行っていますが、その終活をはじめた方でさえ、年を重ねるごとに終活に熱心でなくなる人がふえています

と言っていますが、この発言が島田氏の想像ではないことを証明するためにソースを示せ、と言う気も失せました。

反葬儀の権威になったので、もう間違ったことを言っても大丈夫と
お考えになっているのかもしれません。

島田裕巳氏が出演したテレビ番組の感想

(2010/03/20に書いた記事です)

碑文谷創さんのブログで告知されていましたが
BSフジの「ライブ・プライム・ニュース」
3月19日(金)の放送に島田裕巳氏と碑文谷創さん(葬送ジャーナリスト)が出演されました。
ハイライト版は10日間のみネット上で見られます。
(ということは3月29日まででしょうか)

私の自宅ではBSは見られないので、ハイライト版を見た感想を。
(ハイライト版なので当然制作側の意向による編集が行われているのですが・・・)

見終わって最も言いたいことは
碑文谷さんはがんばられたなぁ、と言うことです。

番組タイトルや司会者・解説者の態度から感じられる制作意図から考えて
完全なアウェイ状態の中で、
葬儀費用の話にしても、あれだけしゃべっていただければ、御の字です。

ハイライト版の最後の方で
「死なない」と書かれたボードを前に
自殺者は弱いという論理を展開する島田裕巳氏に、
この人の浅さというか無知を見ました。

結局その程度の理解で葬式を語っていたのか・・・

自殺者の葬儀を何度か担当した、人並みの感受性のある葬儀屋さんなら、
この発言が故人や遺族に対して、いかに失礼か分かるはず。
(参照ページ:自殺について

もし、碑文谷さんのブログのこの記事
抑圧された悲嘆
を読んだ上で言っているなら言語道断。
直後に碑文谷さんがヒートアップしたのもうなずけます。

いままでのこのブログの記事をお読みになった方は
(参照ページ:「葬式は、要らない」島田 裕巳 の誤りを指摘する
(参照ページ:「葬式は、要らない」島田裕巳氏のインタビューを読んで

一度ハイライト版でも良いので、一度ご覧になってみてください。

 











10 件のコメント

  • 私はほとんど本を読まないのでここの引用は非常に助かっています。
    オウムの時のことは知らないのですが
     島田さんすごいこと書いているんですね。全ての職種において儲けるのは悪だといった論調・・・。ほぼ主観。

  • リンク先の米村さんの発言が染みました。

    ネット社会になってどんな考えも「発言」になってしまうので、このようなことはこれからも絶えないと思われますが、一方では、検索することにより理路整然とした反論があることに読者に気づいてもらうことも意義のあることだと思います。

    今、ツイッターやFBではまさにこの状態だと思います。

  • 0葬に抵抗感を持ってはいけないのは何故なのか。
    島田氏に納得いく説明をして欲しい気がします。
    人を葬ることで儲けが発生しては、何故いけないのか。
    労働には対価が支払われて当然です。
    葬儀屋さんは雲や霞を食って生きろというのでしょうか。

  • かかし様
    >理路整然とした反論があることに読者に気づいてもらうこと
    はい、ここ目指してます。

  • はっちゃん様、
    深読みすると葬送の自由を進める会が0葬にシフトしているので
    将来お金を生むように、
    という深読みもできるかなと。

  • ご本人が実践なさってる最中でしょうか。
    死後忘れ去られないため、周囲に迷惑かけまくる、と。

  • はっちゃん 様、
    まぁとはいえあのオウム騒動のときは本当に気の毒だったので
    この程度の「復讐」は認めてもいいのかも、
    という気持ちはあるんですけどね。

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